すばらしきこのせかい

生きることがゲームならば 2007_09_18

 

私は狭義のゲームを負荷だと定義する。
そして、狭義のゲームを含むものは全て広義のゲームであるとしている。
この定義によれば、この世のありとあらゆるものがゲームたり得る。
しかしながら、我々は普通生きるために必要なことをゲームとは呼ばない。
つまり、通常我々が使っている言葉と摺り合わせるためには、「必要がないのに敢えてやること」という条件を加えてやる必要があるだろう。

ところで、人間が当たり前に食えるようになったのはいつ頃からだろうか?
世界中を探せばまだ飢餓に苦しむ地域はたくさんあるが、日本においては終戦の数年後には大抵の人が食えるようになったようである。
おそらく私を含めて、これを読む方は当たり前に食える時代しか知らないはずだ。
当たり前に食えるということは、当たり前に生きられるということでもある。

食えない時代には人間は必死に生きた。
それこそ、食えなければ人を殺してでも食料を奪って生きた。
ところが食える時代になると、人間は自ら死ぬ。
交通事故で死ぬ人の3倍は自殺しているのである。
こんなおかしな話はない。
食うために努力する必要が無くなった途端、人間は生きる必要が無くなったかのように見える。

もし仮に生きることが必要でないならば、我々は敢えて生きていることになる。
すると、これはゲームだな。
生きることはゲームになったと言えるかもしれない。

こういう考えを否定しにかかることも、もちろん可能である。
我々は映画なり小説なりで、そういったアプローチのものを既に知っているはずだ。
例えば、一時期話題になった「バトルロワイアル」なんかはそうだろう。
殺人ゲームをやらせることで、生きることはゲームじゃないと主張するタイプである。

私は『すばらしきこのせかい』をプレイし始めた段階では、これも似たようなもんだろうと思った。
このゲームの主人公は、自己の存在の消滅を賭けて、制限時間内に指定された条件をクリアさせられる。
スタート時には記憶を失っているという設定なので、もちろん強制的に、である。
最初はありきたりでツマラナイ切り口だと思ったな。

しかしプレイを進めていくうちに、どうも考え違いをしていたらしい事に気付いた。
おそらく生きることをゲームだと認める方向なんだな、これは。
真逆だった。
そして、ゲームなんだから、生きることをより楽しもう、というスタンスのようだ。
オープニングがすごくイヤらしい描き方だったので騙された。

これは新しいアプローチなんじゃないか。
少なくとも私ははじめて見たな。
このゲーム、タイトルが全てひらがなになっているあたり、皮肉だろうと思ったのだが、名前の通りのポジティブな作品なんじゃないかという気がしてきた。
これは悪くないよ。


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