ゼルダの伝説 〜風のタクト〜_2

賢者になんか、ならんでええ 2003_01_15

 

「賢者になんか、ならんでええ!」と思った。
賢者になんかなっちゃったら、一生神様に祈りを捧げることになる。
そんな馬鹿な道理はない。
人は自分のために生きるのである。

私がいま書いているのは、『ゼルダの伝説〜風のタクト〜』の一場面。
『ゼルダの伝説〜風のタクト〜』には賢者が登場する。
賢者が神に祈りを捧げることによってはじめて、悪しきものを打ち砕く力を手に入れることが出来るのだ。
だから、プレイヤーは賢者を捜し出さなければならない。

ところが、賢者になるキャラクターはとてもいいヤツだった。
たいへん美しい精神の持ち主なのである。
おまけに、自分が賢者になるべき存在なんだということを知って、「私にもこんな役割があったなんて・・・」とか、むしろ喜んでいる始末。(セリフはいい加減な記憶)
これから先、ずぅ〜と神様に祈りを捧げるハメになるというのに。
私は断固反対したかった。
こんないいヤツが辛い思いをすることはないのである。
ふざけるな!

もちろん私がゲームのストーリーにケチをつけても仕方のない話である。
じゃあ何が言いたいのかというと実は、この『ゼルダの伝説〜風のタクト〜』はキャラの立ちがすごくイイということが言いたかったのだ。
今までの「ゼルダ」ではここまでキャラは立ってなかった。
キャラが立ってないと「賢者になんか、ならんでええ!」という話にはならないのである。

では、どうしてキャラが立っているのかというと、それはこの『ゼルダの伝説〜風のタクト〜』というゲームが、非常に豊かな感情表現を持っているからだと私は思う。
特徴的なのは、やはり絵柄ということになるだろう。(必要最小限な音声の使い方も上手いが)
トゥーンレンダリング。
はじめは、なんという意表をついたデザインなんだ!とビックリするが、これがイイ。
より感情を強くプレイヤーにアピールできる。

逆に、リアルなデザインで統一しても、なかなか感情は伝わらないだろう。
引き合いに出すと悪いけど、『DEAD OR ALIVE 3』のキャラなんかみると、リアルなCGに表情つけるのは難しいってことがよくわかる。
特に視点が動くゲームでは、複雑な表情は印象が弱くなってしまう。
むしろ、単純な表現こそがプレイヤーの中のイメージをふくらましていくのだ。
闇夜に浮かぶ真っ白な二つの瞳から、プレイヤーは喜びも悲しみも怯えすらも感じ取っていくのである。
もちろんそれはゲームというものが、ただ観ているだけじゃなくて、何事か為していくものだからだ。
ゲームとトゥーンレンダリングは相性が良い。
この勇気ある選択に拍手喝采を!

今まで長いことゲームをしてきたが、「賢者になんか、ならんでええ!」と思ったのは、今回が初めてのことだった。
ゲームの世界には自己犠牲に酔いしれる賢者が山のようにいたんだけどね。



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