探偵神宮寺三郎 KIND OF BLUE

弱さを描く 2004_07_08

 

ゲームが人の弱さを描く。
それは全てのゲームに許されているわけではない。
ヘタに描くと「なに抜かしとんねん、ふざけるな!」という話になる。
人の弱さを描くにはゲームにも「格」が必要である。
そんな中で、人の弱さを描くことが許されている作品が存在するのだ。
「探偵神宮寺三郎」シリーズがそれである。
それは回を重ねてきた作品にだけ許された特権とも言えるだろう。

前作『Innocent Black』が思わず笑ってしまう内容だったため、ちょっと心配していたのだが、今作『KIND OF BLUE』はなかなか良かったな。
ああいう話は「探偵神宮寺三郎」でしかお目にかかれない。
いい加減、ヤクザから離れて話を創れんのか?と思わないでもないのだが。

ところで、今回一つだけ気になったことがある。
神宮寺がマヌケなのだ、前作でもそうだったのだが。
どうもこの物語を考えた人は、神宮寺をマヌケに描きたくて描きたくて仕方ないらしい。
それは要するに、神宮寺にだって心の弱さはあるんだ、ということをアピールしているのだろう。
じゃあ、なんで心の弱さをアピールしなければならないのか?
その問いへの模範的な回答は「自分の弱さを知らない人間が人の弱さを理解できるわけがない」といったところだろう。

しかし、どうもそれは違う。
私は疑いを持っていた。
おそらく、洋子君(前作で解雇した助手)との絡みで神宮寺の弱さを演出しなければならなかったのではないか、と感じていたのである。
どうしてもラブストーリーを織り込みたかったんじゃないか。

だって、大切な人をそばに置いておけないでしょ?、危ないことに首をつっこむ男は。
置いといたら殺されるか、人質にされるのがオチですよ。
そしたら、無理矢理にでも離れるしかないはずだ。
洋子君は絶対に守らなきゃいけない。

それでも洋子君を手元に置いておくとしたら、それを人間の弱さ以外で説明することはできない。
だから、神宮寺にだって弱さがあるんだ、ということをアピールしているんじゃないか。
これはあくまで私の見たところですよ。

ところが、私は神宮寺の弱さを描くことにあまり賛成ではない。
あんなマヌケっぷりは見たくないな。
『KIND OF BLUE』ではマヌケっぷりも序盤だけだから、あまり気にならなかったけど。
人の弱さは犯人や被害者、あるいはその関係者で表現していった方がイイ。
そうすると、神宮寺と洋子君のラブストーリーは描けないので、二人は『灯火が消えぬ間に』 ぐらいの間柄になるしかない。
二人が寄りかかっている関係だと、どうしても心の弱さが必要になるんだ。

もちろん、そんなことを私が主張したところで、今更どうしようもないわけだが。
もう後戻りは出来ない。
このままで行くと、
1. 洋子君が死ぬ
2. 神宮寺が死ぬ
3. 神宮寺が探偵をやめる
4. 組織的な犯罪には立ち向かわない
のいずれかしかないと私は見ている。
一体どうするつもりなんだろうな、ということで、このシリーズはますます目が離せなくなってきたのである。
洋子君を殺すために伏線張ってきたんだったら許さないぜ。



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