Wii/DS世代では同一性が重要であると私は主張してきた。 テレビゲームは、操作対象や操作そのものをプレイヤーが価値があると思える何事かに置き換えることによって得をするものであり、置き換え元との同一性を高めることによってそこから得られる喜びを大きくすることができるのだ。 世間で同一性という言葉が使われていたかどうかは別にして、概ね間違っていなかったと私は思っている。 もちろん、PS3にだって同一性を重視したゲームはリリースされていた。 「アンチャーテッド」シリーズなんかは、臨場感やカット割り、あるいはボタンと画の同期などを用いて同一性を高めることに注力していたと思われる。 ただし、同一性が高まっても、置き換え元の価値が減少したら、全体としてはあんまり得しない、という事態もありうるのではないか。 私には思い当たる節がある。 ところで、『アンチャーテッド 海賊王と最後の秘宝』は一応やっておかなければならない作品だった。 今まで全部やってきたシリーズのラストだそうだし、今どきの最高水準を知る意味でもやる必要があった。 やってみたらビックリ。 すっげー進化してた。 画が綺麗なもの凄いけど、カット割りというか、一番画が映える構図にプレイヤーを導くテクニックが凄い。 プレイヤーは自分の意思でそっちへ進んだような気になってるのに、ワンシーンワンシーン計算されたカメラワークに収まるようになってるんだよ。 確証はないが、心理的にそっちへ行きたくなるように誘導してるんじゃないかな、画面効果で。 しかもムービーシーンへのつながりもシームレス。 ホントに映画の中の主人公を自分が操作しているような気分になる。 『2』から『3』へはあまり進化を感じなかったけど、4作目に当たる『海賊王と最後の秘宝』は同一性の観点から見ても大幅にステップアップした印象だった。 パッケージの裏に、”「Playする映画」、ここに極まる。”って書いてあるんだけど、まさにその通りだ。 しかし、である。 実は私はあんまり面白いとは思わなかった。 いくつか原因は分かってるんだ。 まず第一にストーリーがイヤ。 私は主人公が家族に足を引っぱられるお話が大嫌い。 兄弟でも切れ!と思うね。 他にも嫌いな点が一杯あるんだが、もう一つ書くとすれば、何百人も傭兵の皆さんを虐殺しておいて、ボスキャラと相対したときだけ無闇な殺生は避けるべき、みたいなあの感じはなんなんだ! 私はあったまに来るんだけど。 そんなに一杯人を殺すんなら、最初っからあいつひとりだけ殺しとけよ。 もしくは諦めろ! ホントに宝があるかどうかも最初は分からないんだから。 それはともかく、ここからが本題。 もう一つ今回気付いたのは、映画というものに私自身が敬意を払っていないということ。 最近、定額動画サイトなんかで適当に映画観てるじゃん。 それも、スプラトゥーンの待ち時間に細切れで観たりするんで、映画が軽くなっちゃってるんだ。 私だけじゃなくて、今どきの若い連中はスマホで移動中に映画を観たりしてるから、おんなじような状況になってるんじゃないかな。 おっさん世代は「映画は総合芸術だ!」なんつって殊更に持ち上げるけど、実は映画の価値が減少してきていると私は思うのである。 置き換え元が価値を失っていたら、同一性を極めたところで、得られる喜びの上限が低くなっちゃうでしょ。 最近の映画がどんどん短くなってるのも、映画が敬意を失っている現れなんじゃないかな。 もしそういう時代になってきているんだとしたら、映画的なゲームを極めてもあんまり得をしないだろう。 ゲームは高く売らなきゃならないから時間稼ぎが必要だけど、それもいま映画が置かれている現状とは相反する。 この『海賊王と最後の秘宝』やってても、やっぱりくどいと思うもんね。 チャプター8あたりで、ハッキリと岩登りに飽きているのを感じた。 今作に関しては技術的優位があるから、まだ世間に受け入れられるだろうけど、似たようなゲームがどんどん出てきたら、ちょっとどうかとは思うね。 たぶんダメなんじゃないかな。 今作でラストにする、との判断は正しいと思うよ。 |