良くできたゲームというやつがある。 「作り込み」といわれる作業を行ったゲームだ。 例えば『罪と罰』。 本当に良くできている。 ここまでプレイしてきて、ようやくわかってきた。 ボスキャラが当たり判定の大きい攻撃を出してくる。 当然避けたい。 方法としては「無敵避け」か「2段ジャンプ」が挙げられるだろう。 しかし、足下には雑魚キャラがいて、オマケにポイントアイテム持ちだったりする。 そこには意図がある・・・、が、うっかり切ってしまったり。 切りモーション中は避けられない。 かくしてボーナスポイントは、初期状態に戻ってしまう。 クリエイターのほくそ笑む顔が脳裏に浮かぶ。(見たことはないが) ナンでもないところなのに、なぜかポイントアイテムが連続して出てくる。 不自然だ。 もっともやり込まない状態では不自然だとも感じないのだが。 ところが、プレイを詰めていくと理解できるようになる、その意図が。 その直前にパターン化しないとノーミスで抜けられない場所があるのだ。 だから、それはご褒美。 クリエイターのうなずく顔が浮かぶ。(繰り返すが、見たことはない) 「作り込み」という言葉を考えてみよう。 一回しか通らない通路にわざわざ綺麗な背景を付けたりする事に対して「作り込み」という言葉をあてることもあるが、それは本当の意味での作り込みだろうか?。 私は単なる贅沢だと思う。(売れる見込みのあるゲームだけが出来る) 本当の「作り込み」とは、作り手が遊び手をイメージすることなんじゃないのか。 「こう敵を配置したら、きっとプレイヤーはこうくるよな。 ということは、ここにこれを置いたら2択を迫れるはず。」 そんな思考の積み重ねが「作り込み」と呼ばれるにふさわしい、と私は確信するに至った。 もちろん「きっとプレイヤーはこうくるよな」という所まで自分を持っていかなければならないのだが。 まことにもって、良くできたゲームというやつは、よく遊ばないとわからないものである。 <余談 2000_01_09> いつも「つくる」を「創る」と書くか「作る」と書くか迷う。 クリエイトの意味で使うときは「創る」と書くようにしているが、「つくりこみ」ってどっちを当てたらいいんだろう。 今回は「調整」という意味合いで、「作り込み」と書いた。 もちろん、そこには創作も多分にあるんだろうけど。 |