変わるべきもの。 それはコントローラー。 ゲームパッドと言うべきか。 新しいゲーム機が発売されるときはチャンスである。 『ピクミン』をプレイするには、右側のアナログスティックを使う必要があった。 ピクミンの隊列を制御しないと迷子がでたり、あるいは敵の餌食になってしまうのだ。 ゲームも中盤になる頃にはどうしても使わねばならない。 普段右指はボタンを押すことに使うので、これはなかなか難しいのだが。 ピクミンをオリマー(主人公)の周りに集めて高速投げをするときなんかは、どうやってやったらいいのかと苦慮した。 で、しげしげとコントローラーを眺めているうち、「ああ、このコントローラーにはそういう意味があったのか」と思った。 つまり「右指でアナログキーも使えますよ」ではなく、「右指を積極的にアナログキーに割り当ててください」ということなのだろう。 Aボタンだけ極端に大きくて、それ以外は使いにくいほどに小さい。 アナログキーから指をはなしてボタンを押しに行くとき、均等なボタン割り振りがされていると混乱するからではないか。 言い換えるとそれは、「今までとは違うゲームづくりをしてください」というクリエイターへのメッセージであり、「新しいゲームを楽しんでください」という私たちゲーマーへのメッセージでもある。 今ここで、なぜたくさんの新しいゲームが発売されるのかを考えてみることにする。 私たちは素晴らしいゲームを過去に数多く経験してきた。 そのゲームを楽しみ続ければ、新しいゲームなんかいらないはずである。 なぜ毎年何百本ものゲームが発売されるのか? 答えは「飽きるから」である。 ゲームは飽きる。 野球のゴロに同じゴロは2度ないが、ゲームの世界では同じゴロが何度でも起こる。 どれほど作り込んでも、やはり限界があるのだ。 人間の脳味噌には驚くべき学習能力があるのである。 しかし、次々と新しいゲームが発売されたとしても、ゲームが質的に変わらなかった場合どうなるのか? この問いに対して、私たちは端的な例を挙げることができるはずだ。 「ファイナルファンタジー」シリーズはまさにそれである。 ゲームが質的に変わっていないから、変わっている点を目に見える形で示さなければならない。 だからより映像が綺麗になる。 演出が派手になる。 それ故に今ゲームは行き詰まりを見せているのではないのか? お金も人材も贅沢に投入できるメーカーは限られているのである。 だったら、ゲームは質的に変わらなければならない。 その最たるものがコントローラーである。 入力デバイスが変わることで、脳味噌は新たな刺激を受ける。 プレイヤーの脳味噌に新たな回路を作らせることができるのだ。 その一方で、クリエイターは常にプレイヤーを把握しなければならない。 プレイヤーがどんな状況でプレイしているのかを100%把握したい。 となれば、コントローラーは一種類であることが望ましい。 そうでなければ、大多数のプレイヤーに支持されるゲームは創り得ない。 とするならば、ゲーム機の替わるるときがチャンスである。 ここしかない。 私はかつてSSからDCに替わるとき、コントローラーに互換性がないことを嘆いた。 64からGCに替わろうとする今も、3Dスティックに未練を持っている。 しかし、やはりコントローラーが変わるのは必然なのである。 ゲームは私たちに喜びを与え続けなければならないのだから。 もちろん、私たちには「パワプロは3Dスティックでなければならないんだ!」とか「3Dスティックはまだそのポテンシャルを発揮していないじゃないか!」といった抗弁も残されてはいるのだが・・・。 |