The Last of Us Part II

テレビゲームは映画とは違う 2020_07_06

 

テレビゲームは何らかの手段を用いて他のゲームより相対的に得をするものである。
これは娯楽としてのテレビゲームがユーザーに選択されるために、結果的に求められる定義である。
得をする方法はいろいろあって、その中にはストーリーに価値を持たせたり、テレビゲームの中で価値のある行為を簡便な操作に置き換えたりすることも、その一つである、今までも書いてきたことだが。
また置き換えの同一性を高めることにより、得られる喜びを大きくすることも出来る。
これもくどいほど私は書いてきたはず。
しかしここで問題になるのは、ストーリーなり置き換える対象なりにプレイヤーが価値を感じなかったらどうなるのか、あるいはマイナスの感情しかもたなかった場合どうなるのか、ということだ。
そんなことを考えなければならないのが『The Last of Us Part II 』。
この話を書くにはどうしてもストーリーに触れなければならないので、これからプレイするつもりのある方は読み進めないで下さい。


ゲーム内容は別にイイんだよ。
私はステルスプレイが嫌いだし、同じ事の繰り返しで単調だと思うけど、そもそもそういうゲームなんだから、そのことにとやかく言うつもりはない。
CGは最高水準でしょ。
マルチのトリプルA作品なんかよりはワンランク上に感じられるほど手が込んでいる。
実は一本道なのに、なんとなくプレイヤーが自分で道を見つけたように感じさせる演出も上手い。
よくあるオープンフィールドものみたいに方向を示すんじゃなくて、映像でプレイヤーを上手に誘導していくんだ。
動作やムービーからの繋ぎのなめらかさなどからして、同一性の観点から見ても、この手の作品ではトップクラスなんじゃないかな。
やはり一見の価値があることは間違いない。

一方で大きな問題も抱えていて、それはプレイヤーにイヤな思いをさせることだ。
最初からボタンの掛け違いが起こってるんだよ、プレイヤーとキャラクターの思いに。

このゲームは前作の回想シーンから始まる。
前作の主人公ジョエルが弟のトミーにエリーを助けたときの顛末を話すのである。
ここでプレイヤーはピンとくるはず。
だって、背景に流れている映像が、助けたことより助ける際に組織の人間をたくさん殺したことを示唆する内容になっているから。
これが復讐に繋がるんだなってプレイヤーは分かっちゃう。
一方でエリーはそれをハッキリとは知らなくて、復讐にいきり立ってしまうのだ。
後になって、人類の未来と引き替えに助けられたことにエリーが怒ってジョエルとケンカしちゃって、和解する前に死なせてしまったことがトラウマになっている、と分かるんだけど、それはあくまで後の話。
プレイヤーとエリーの温度差が凄いの。
普通なら殺されても文句の言えない状態だったのに殺されなかったんだから、その辺で止めとけよ、と思うプレイヤーの気持ちとは裏腹にエリーは主犯格の仲間達を拷問した上で殺していく。
プレイヤーはその片棒を担がされる格好になるわけだ。
同一性が高いが故によりイヤだよね。

これね、映画だったらこういう描き方でもいいと思うんだけど、これは長い時間自らが操作するテレビゲームだからね。
しかも同一性の高い。
テレビゲームでこういう描き方をするのは間違いだと思うな。
少なくともプレイヤーとキャラクターの思いは一致させた方がイイと私は思う。

最後の方なんか、もうホントにイヤだった。
終わったと思ったらまた復讐しに行きやがって。
ダブル主人公だからどっちも死なないだろうとは思っていたけど、殺す寸前のところまでQTEで操作させるし。
どっちかといったら、私はエリーじゃない方に同情的だったから、よりイヤだったな。
こんなにイヤなゲームもなかなか無いよ。
娯楽としてのゲームなら、せめて選択肢ぐらいは用意してもらいたいものである、イヤな行為を避けることが出来る、ね。


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