セピア色に固まった画面をじっと見つめていた。 時折、思いだしたように、メロディが流れてくる。 永遠に続くんじゃないか・・、そんな気がしていた。 でも、やっぱり終わりは来るんだ。 少しずつ、少しずつ進めたこの6週間、長かったのか短かったのか。 エンディングを眺めているとき、久々に良いゲームを終えたときにだけ感じる寒気のようなものを感じた。 目頭が熱くなった。 終わってしまったことは悲しいが、ここへたどり着けて本当に良かった。 本当にそう思う。 「ゼルダの伝説〜時のオカリナ〜」というゲームについて、あまり語りたくない。 きっとプレイした人々は、自分だけの「ゼルダ」を持っているに違いないから。 ただ、いま私が書いておきたいことは、このゲームを投げ出したいと思ったことが少なからずあった、ということなんだ。 私はこのゲームをクリアするまでの間に、3回ほど攻略HPを見てしまった。 情けないとは思ったが、苦しくて耐えられなかったのだ。 今、詰まったところを思いだしてみると、決して難しいからではなかった。 自分がいま取り組んでいることが、本当に正しい方向なのかどうか? 絶対何かこの部屋の中にトリックがある、と思っても、ひょっとしたら他の部屋で何かアイテムをゲットしないとダメなのかもしれない、あるいは、この神殿は、いま来るべき場所ではないんじゃないか?、という不安に駆られることがあった。 それは何でも出来るゼルダ故の苦しさであったかもしれない。 自分がしていることが正しいかどうか不安で仕方がない、そんな気持ちを他のゲームでも味わったことがある。 それは「エネミーゼロ」でのことだった。 なんの情報もなく、ひたすら見えない敵と戦いながら下へ下へと降りていく。 下へ行くことが正しいのかどうかわからない。 でも、下に進める以上、その先には何かあるはず・・、わかってはいた。 コンティニュー制限もあって、非常にストレスを感じた。 結局、人に頼ってしまったのだが、実はもう既にイベントの直前まで来ていた。 あとホンのちょっとだったんだ。 悔しかった。 でも、投げ出してしまう人が多いという話は理解できた。 せっかく3Dゲーム部分が面白いのに、勿体ない話だと当時思った。 こういった苦しさ・不安というものは、きちんとゲームを提供しようとすると、しばしばつきまとうものだ。 従来あまりゲームをしなかった人々を吸収しつつあるゲームの世界はこれから、この不安をどうやって取り除くか考えていかなければならない。 出来ることならば、プレイヤーの達成感を損なうことなく、それは行われるべきだろう。 最近プレイしたものに、そうした取り組みの跡が見られるものもある。 「ソニックアドベンチャー」では、要所要所にヒントをくれる光の玉が配置してある。 これによって、次になにをすべきなのかがハッキリわかるので安心だ。 だが、あまりにも露骨すぎて、多少違和感を感じないでもなかった。 「メタルギア ソリッド」では、手厚い配慮がなされていた。 何回か失敗するとヒントを小出しに教えてくれる。 ある程度プレイヤーに努力させて、ダメなら行き詰まる前に、こちらから情報を提供しよう、という意図が感じられた。 これは一つの答えなのかもしれない。 だが、それはやはり一つの答えにすぎない。 もしゼルダでいちいちヒントを出されたら、わたしは「だまっとれ!」と言うに違いない。 乗り越えてきた「苦しさ・不安」が、こうして感動させていることを私は知っているからだ。 少し高い壁を乗り越える。 それこそがゲームの楽しさなのだ。 それを楽しいと感じられる自分でありたいと思う。 チャレンジしていこう。 もし苦しくなったら、人の助けを借りてもいいじゃないか。 ゲームを楽しむということがなにより大切なんだ。 どうか、ゼルダをプレイする全ての人が、エンディングに辿り着けますように。 年の終わりに祈りを込めて。 |