「超」が指し示す意味は、本来文字通り比較する何かを「こえている」ということである。 しかし、我々は普段「超」を名詞や形容詞の頭にくっつけて、程度を表す言葉として使うことが多い。 「超〜」というときは「〜の凄いもの」とか「とても〜」という程度を表す言葉として使っているのである。 おそらく[super]の対訳に「超」を当ててしまったために、こうなったのではないか。 比べるものの中で上位の、というニュアンスが優勢になったものと推測する。 ところで、私はいま「超推理」という言葉を目にしている。 今風に考えれば、推理の程度が凄いのであろう。 私はこの言葉を見たとき、なんという自虐的なネーミングなんだ、と思った。 どうもこれは見当違いだったようだが、あまりにおかしかったので、このことを書いておきたい。 この「超推理」という言葉にはDSで発売された『シグマハーモニクス』の中で出会うのである。 『シグマハーモニクス』の説明をするのがメンド臭いので、まあざっくり言って、殺人事件を推理で解決するゲームだと思って欲しい。 かなり違うけど、ここでは構わない。 屋敷の中を駆け回って証拠を集めて、その証拠を「超推理」画面で組み立てることで真理にたどり着こうとするのだ。 ここで「推理」に「超」がついてるのがちょっと不思議なところである。 考えてみると、自虐的な意味以外に取りようがなかった。 というのも論理展開に飛躍があるように感じられるのである。 人間の言葉って、必ずしも一意に決まっているワケじゃない。 同じ言葉でも一人一人受け取り方が違う。 言葉の定義から決めていかないと、なかなか人の思考を特定することは難しいのである。 例えば、私が一番最初に困ったのは、「食事」の中にワインは含まれるのか否か。 ワインを食事の一部と取るのか、別と取るのかで、答えが真逆になってしまうのだ。(このときの読みは外れていたんだけど) 「逆転裁判」なんかだと、「ゆさぶる」を使って作者はプレイヤーに自分が何を意図しているのかを細かく伝えていく。 トレースしてもらわないと話が進まない。 ところが、この『シグマハーモニクス』にはそういうのはないんだな。 シナリオ書いている人の論理が全く判らない。 プレイしていて、凄く困った。 で、このシナリオを書いた人間は自分でも判っていたんだろう、と思ったのである。 自分の思考にどうせプレイヤーはついてこられない、ついてこられるようになんか創ってない。 これは「超推理」なんだ!と。 「超」を付けている時点でもう論理が飛躍していることを自ら認めているのである。 プレイヤーにゲームを提供する人間として、これほど自虐的なこともないだろうと私は思った。 しかし、おそらくこれは違う。 このゲームを創った人達は、そんなしおらしいことを考えているわけではないだろう。 この「超」は「推理が現実を超える」という意味なのである。 間違った推理をしても、現実が推理を追認するように出来ているのだ。 つまり間違ったまま現実が固定されてそのままゲームが進んでいく。 だから「超推理」なのである。 でも、たぶん普通の人は論理が飛躍しているから「凄い推理」→「超推理」だと思うだろうな。 この辺に思いがけない可笑しさはある。 最後までやってみて、このゲームのシナリオを書いた人間はあんまり手の内を見せたくないと思っていたらしい、という印象を受けた。 あんまりプレイヤーと対話したくなかったんだろう。 煙に巻いておいた方が最後でビックリさせられると踏んだのかもしれない。 だから、プレイヤーを誘導するヒントを証拠集めと同じシステムの中に放り込んでしまった。 よりにもよって一番メンド臭いシステムに。 普通はこんなのあり得ないわな。 わりと雰囲気はいいゲームなんだけど、さすがにこれを褒めるわけには行かない。 だって、超メンド臭いんだもん。 もちろん、この「超」は単なる程度の話であって、メンド臭いを超えているワケじゃないんだけど。 |