続・僕らの太陽_2

太陽の子供達 2004_11_09

 

人間に与えられているのは太陽だけだ。
私はいつも思う。

生きとし生けるもの全ては太陽の恩恵を受けているのだ。
私たちの食べているものは全て太陽エネルギーが変化したものだと言って差し支えなく、その結果、私たち人間の体もまた太陽エネルギーが変化したものと言える。(分子の結合エネルギーに変化する)
また、人間に至ってはその消費しているエネルギーの大半が太陽エネルギーを源とするものである。
化石燃料だって一般的な学説が正しいとすれば、太古の動植物のなれの果てであり、それらもまた太陽が源である。(生物がバッテリーの役割をはたしている)
私たちは太陽に生かされているのだ。
私たちは「太陽の子供達」と自称せねばならないくらいであろう。

そんな太陽を無理矢理使わせるゲームがある。
『ボクらの太陽』がそれだ。
私は凄く興味があった。
太陽がでてるときでないと進められないゲームなんて、単に時間的・場所的な制限を課しているだけで、それがゲームの喜びに一体どう貢献するというのか。
実のところ、意味ねぇんじゃねぇの?というネガティブな見解による興味だったのだが。

ようやく『続・ボクらの太陽』をプレイし終えて、一つだけ言えることがある。
太陽を使うことには意味があった。
本当に太陽の力を感じるんだ。

ヴァンパイアが日光に弱い、といっても、ゲームの中でただ光に当たっただけでは、単にヴァンパイアの特性を示しているに過ぎない。
ところが、実際に光に当たってプレイしてみると、なるほど太陽の力だな、という感覚があるのである。
これはひどく生な感覚なのだ。
光の強さによってダメージも変わってくるから尚更である。
プレイして、これは凄くいいゲームだな、という感触があった。

ただ、太陽光が必要になる場面が多々あることは、プレイを進めていく上で大きな困難であったことも確かである。
早起きして時間を作らなければ、土日以外プレイ出来なかった。
それも夏のうちは早い時間に陽が当たらなくなってしまうので、休日でも早起きしなければならなかった。(私の部屋は10時くらいで窓際まで光が届かなくなる、夏場は)
如何に子供向けとはいえ、よく創ったな、こんなに制限のあるゲームを。

きっとこのゲームを創った人は意地っ張りなんだろう。
プレイしながらそんな気がしていた。
ほとんど一本道なんだけど、意外と誘導の弱さを感じることが多かったから。
プレイヤーに媚びてないんだ。
おそらく「こうやって遊んで欲しいんだ!」という思いを込めて創ったんだろうな。
あるいは、多分に教育的な意味合いがあるやもしれない。
タイトルからもそれは読み取ることができる。



戻る