イース7_2

神々の縄張り 2010_01_15

 

宗教の世界では唯一絶対神の方がモダンである。
キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、浄土真宗にせよ、比較的新しい宗教と言って良いだろう。
原始的には日本のように汎神をとる方が普通であると思われる。
なぜならば、人間は個々の自然現象、その作用・効果に対して神性を感ずるからだ。
それが一神教に淘汰されてきたのは、そのロジックの強固さが故であると私は思う。
神様がたくさんいると、色々とメンド臭い。
神様と神様が対立したら、どっちが強いの?とか、その神様の縄張りはどこまでなの?といった具合に疑問がたくさん湧いてくるので、細かい説明を考えなきゃならなくなるし、どこかで必ずその論理は破綻する。
むしろ、唯一絶対の神様がそう決めたんだから、しょうがないだろ!と言い切ってしまった方がロジックとしては強いはずだ。
果たして多神による複雑なロジックをゲームの中に持ち込んで、世界的に受け入れられるものなのか。

『イース7』をプレイしていて、おや?と思うことがあった。
主人公アドルは流れ者の冒険者である。
当然、今回の舞台であるアルタゴ公国の人間ではない。
それで、ゲームの途中でアドルはアルタゴの因果律には入っていないから逃げても別に良いんだよ、という話が出てきた。
もちろん、主人公だから逃げないけどね。

そこで、やはり疑問が生まれてくる。
どこまでがアルタゴの因果律に入ってくるの?っていう。
あるいはどのレベルの生物まで?っていう。
隣の国の海域と行き来している魚はアルタゴの因果律に含まれるのだろうか?
知性のある動物なら何となく分からないでもないが、微生物、さらにはウイルスとかまで含まれるのだろうか?
現在休戦中の国が隣にあるという前提で、アルタゴの因果律によって○○される風景を思い描いたとき、なにやら不自然な気がした。

我々は今まで、中世ヨーロッパっぽい風俗にギリシャ神話的な多神による世界観というものをごく自然に許容してきたが、ホントは普通じゃないのかもしれない。
元々海外ではマイナーなジャンルだったらしいからな、RPGって。
海外から吸収して、いざ再輸出しようとしたら、あんまり受け入れられない、ということはあるんじゃないか。

近頃、日本のプレゼンスが世界のゲーム産業の中で低下していると言われる。
その理由を開発環境とか開発手法に求める記事を比較的良く読む。
でも理由はそれだけじゃないかもな。
昔はアクションゲームが中心だったから、ストーリーなんてどうでも良かった。
ゲーム機の表現力が増して、ストーリーを見せるゲームを売り込もうと思った途端に文化的な障壁にぶつかってしまう、ということはありそうな気がした。
この『イース7』を海外で売るつもりがあるかどうかは知らないし、ストーリーが売りではないんだけど。


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