風雲 新撰組

最もプレイしてはいけない者 2004_06_24

 

司馬遼太郎の作品を随分とたくさん読んできた。
というか、それしか読んでないという気さえする。
おそらく長編ものは全部読んだんじゃないかと思っている。
司馬氏の小説は吉川英治なんかに比べるとそんなに面白い訳じゃないんだけど、読んでいるとその時代が自分の中に構築されていくような感覚があり、わかったような気がする喜びを味わうことが出来る。

そんな司馬氏の作品の中で例外的に面白いのが『燃えよ剣』。
新撰組の土方歳三を主人公に描いた作品である。
読んだのがものすごく昔の話なので詳細は忘れてしまったが、他の作品に比べると登場人物を魅力的に描いてあったように記憶している。

そんな新撰組がゲームになった。
元気が発売した『風雲 新撰組』がそれである。
これを是非やってみたい、と私が思うのも当然のこと。
ところが、これがいけなかった。
私はプレイしてはいけない者だったのである。

まずプレイしてると、説明が足りなくて満足できなくなる。
例えば、
「それまでの日本には『日本』っていう概念はなかったんだ。ところが外敵が攻めてくるかもしれない、という話になったときに、はじめて『日本』という概念が必要になってくる。守るべき対象を把握する必要があるから。この『日本』というものを把握したときの心の高まりを説明しなかったら、わざわざ脱藩してまで京に上ってくる志士を理解できないじゃないか!この時代の脱藩は切腹ですよ」
とか、
「その日本を守るんだ、という話になったときに、現体制から利益を受けていない人間は現体制を破壊して日本を守るんだ、というロジックになるし、利益を得ている人間は現体制を維持して日本を守るんだ、というロジックを持つ。だから、同じ尊皇でも佐幕と倒幕に分かれるだ、ということをきちんと説明しないと!」
とか、
「いやいや、それ以前に江戸時代という教養期があったことを説明しないとダメだ。長い教養期があってこそ、現実のパワーバランスを無視した『尊皇』という発想が生まれてくるんだよ」
とか、色んな事が頭に浮かんで、次第に腹が立ってくるのである。
長年歴史小説読んでると、『風雲 新撰組』の演出ぐらいでは全然物足りないのだ。

しかし、新撰組の魅力ってのは、手段と目的を入れ替えて、それを純粋なまでに突き詰めていくところにあるのかもしれない。
だったら、歴史の話は別にいいじゃん、という考えもあるだろう。

じゃあ、ゲームはどうよ?というと、これは辛かった。
このゲームのメインは志士との斬り合いではなく、どうやら如何にして志士を登場させるかというところにあるようだ。
「志士を登場させるためのフラグをいかに立てるか」がゲームになっているのである。
一人で抜刀しないである場所を通りかかる、とか、走らないで一定時間を歩き続ける、とか。
これは退屈だな。
「俺に何をさせたいねん!」と思った。
ライトユーザー向けに剣術部分はあまりゲームにしなかったようである。

いま第7章にいるんだけど、もう止めたくて止めたくてしょうがない。
エンディングまでもうちょっとだから、何とか最後まで頑張るつもりだが。

このゲームが特別悪いわけではないんだけど、私はこのゲームを最もやってはいけない人間だったな。
このゲームのターゲットは、新撰組にちょっとだけ興味があって、かつあんまりゲームしない層なんだろう。



<後日談 2004_06_25>

やっとクリアできた。
頑張った甲斐あって、ラスボスは面白かった。



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