私は読み違えていたなと感じている、『シェンムーU』を終えて。 「シェンムー」というものの本質は「自由度」ではなく、「Shenmue the movie」だったのではないか。 私は『シェンムーT』をプレイしたとき、大変腹が立ったのである。 これじゃダメじゃん!と思った。 変に自由度が高いゲームを目指しており、誰にでも楽しめるゲームとして創られていなかった。 誰にでも楽しんでもらうためには、徹底的にプレイヤーを誘導して、単位時間当たりの喜び量を保証してやらなければならない。 『シェンムーT』というゲームは、PS2に対するキラーソフトとして位置づけられていた以上、むしろ自由度を殺す必要があると私は思ったのである。 私は「自由度」というキーワードでこのゲームを考えていた。 ちなみにこのとき、私がどれほど怒っていたかというと、鈴木裕に留まらず、羽田隆之(新宿ジャッキー)に対して 「そんなに鈴木裕に嫌われるのが恐いか!」と毒づいていたほどである。(もちろん心の中で) どうしてかというと、ファミ通の記事で「結構いい感じなんですわ」などとコメントしていたからだ。 彼ほど沢山のゲームに接してきた人間ならば、『T』の構成ではキラーソフトになれないということに、製作段階で気付いてしかるべしだと私は思った。 気付いていて進言しなかったのであれば、その罪は重い。 ところが、『シェンムーU』をエンディングまでやってみると、どうもこのゲームは格闘シーンをやらせることを目的としているのでもないし、謎解きをやらせようとしているのでもない、という感じがする。 要するにムービーを見せたいのだ。 『U』発売を前にして、「Shenmue the movie」を公開したように。 『T』で極めて退屈だった「情報持ってる人さがし」はかなり縮小されていたし、テンポよくイベントを見せるように心がけられていた。 格闘シーンやQTE(注)はあくまでプレイヤーの「ゲームしてる感」を引き出すための負荷である、という割り切りがあるように私には見えた。 多少面倒なことであっても、「これをやらないと先に進めませんよ!」という明示があれば、プレイヤーは頑張れるものである。 そこで考えてみるに、「シェンムー」というものが「Shenmue the movie」なんだ、という話になれば、私が『T』で考えていた自由度云々の話はまた別の見解が取れる。 要するに、ただバランスを失していただけなんじゃないか、と。 どれぐらいどんな負荷をかけたらいいのか、わからなかったのではないか。 如何に鈴木裕がこれまで優れたゲームを開発し続けてきたと言っても、それは全て業務用である。 これは彼にとって初めての試み。 素晴らしいゲームってそんな簡単に創れるはずがない。 私達はよく知っているはずだ。 結局のところ、『T』から得たプレイヤーの感想を元に、フィードバックをかけて完成したのが『U』であり、漸くもともと目指していた「Shenmue the movie」になったのだ、と私は感じた。 正直に言えば、大変面白くエンディングまで遊ぶことが出来たのである。 ディスク4に入ってからの心地よい演出などは特筆に値する。 よくぞDCでここまで頑張ったと褒めてあげたい。 しかも、この『U』にフィードバックをかけることにより、『シェンムーV』は尚更素晴らしくなるはずなのだ。 残念ながら、『V』がDCで発売されるという目は望み薄なのだが・・・。 (注)QTE(Quick Timer Event) 画面の指示に従って方向キーやボタンを入力していくと、イベントが進んでいく。 失敗すると少し前からやり直す羽目になり、会話を飛ばせないので、かなりイヤーン。 きっと『V』では飛ばせるようになってるよね。 |