『大玉』も2周目が終わった。 2周目が終わってみると、はじめはなぜあんなに難しく感じたんだろう、と不思議になるぐらい簡単なゲームだったな。 2周目は余裕があったせいか、あんまりゲームとは関係ないことを考えながら私はプレイしていた。 私はちょっとおセンチな気分になっていたのである。 『大玉』の舞台設定はちょっと面白い。 プレイヤーたる主人公の名は山ノ内影虎なのである。 山ノ内というと、任天堂の山内元会長の名前が思い浮かぶけど正にその通り。 父、山ノ内信唯の仇を討ち、山ノ内家を再興させる、というのも、64以降PS陣営に負けてきた任天堂の現在を連想させる。 最終ステージに到達すると分かるのだが、明らかに狙った創られた設定である。 私は自分がプレイすることを、セガファンとしての戦いだと思ってきた。 それは、そう思った方がゲームが楽しくなるからである。 歳をとるとゲームやるのも大変だ。 何か自分にモチベーションを与える必要があった。 しかしまた、これはどうしたことだろう? まるで私のイメージをゲームにしてくれたようではないか。 敵方をSCEと連想させるような部分は見あたらないにせよ、私は大変嬉しかったのである。 しかし、一方で私は『セガガガ』のことを思い出していた。 そして悲しくなった。 これが余裕の差というものなのか。 『セガガガ』は余りにも直接的にパロっていて、ものすごく卑屈なのである。 思い入れがあるから結構面白かったけど、まあ、ひいき目に見ても安いつくりだ。 DCの末期になんとかギリギリ滑り込みで創らせてもらったという感じ。 そこへ行くと『大玉』なんか、とても今時売れそうもないけど、しっかり創ってある。 いかにもありそうな架空のストーリーを創ってあるところに余裕を感じる。 何せ任天堂は優良企業だから、そもそも山ノ内家が倒れたわけでもないし。 余裕があるから、お遊びも許されるんだろう。 とてもペイするとは思えないこんな作品に、よくお金をかけたなと、感心するもの。 仮にこのゲームがDCの末期にあって、セガが創ったものであったなら、随分と胸のすく思いがしただろうに、と私は考えていた。 あの時のセガには到底無理だったろうけど。 本気で潰れかかっていたからな。 敗者には真っ当にゲームを創ることすら許されないのである。 私は『大玉』をSCEとの戦いに置き換えて楽しんでいたのだが、それもまた些か悲しいことであった。 <余談 2006_04_27> 中さんがセガを退社して、独立したそうだ。 DC撤退に最後まで反対してくれたそうなので、一ファンとして中さんには義理を感じていたのだが。 パチスロメーカーに成り下がったセガに立てる義理はいよいよなくなったな。 嬉しいことなのか、悲しいことなのか。 |