ニーアレプリカント_1

セカチューもまんざら 2010_05_20-21

 

ゲームというものは寄与分の奪い合いである、創り手と遊び手による。
最終製品としてはもちろん創り手の寄与分が100%ではあるけれども、プレイヤーの内側では与えられた材料を用いて自分なりのゲームを作り上げていく意味でプレイヤーの寄与は常にある。
出来ればプレイヤーの寄与分は大きい方がいい。
ゲームが面白いのは自分のおかげだという事になるからだ。
プレイヤーをゲームに導入するためには物語を説明せざるを得ないが、もし仮に情報をあまり与えないでゲームを進めさせることができるなら、その方がいい。
そうした方が、自分の内側に築かれたゲーム世界が自分のものであると、プレイヤーはより強く認識できるはずである。
お金を払って貰ってるんだから、どちらが譲るべきかといえば、譲るのは創り手の方だろう。

ところで、品薄だという話を聞くと急に欲しくなることがある。
もちろんゲームもそうだ。
PS3で発売された『ニーアレプリカント』には全く興味が無かったのに、品薄だといわれるとやりたくなった。
どんなゲームなのか全く知らなかったのだが。

このゲーム、オープニングがちょっと凄い。
笑える。
全く説明もないまま長い単調な戦闘をやらされた後、セカチューもどきの「誰か助けてくださーい!」でゲームの本編が幕を開ける。
最初バカかと思ったな。
セカチューのまねをして、一体何がしたいのか?
しかし、この感想は後に全く違ったものになった。

この『ニーアレプリカント』には、ほとんどゲーム世界の説明がない。
冒頭に登場した兄妹と本編の兄妹の関係も不明なまま。
読み取ることが出来るのは、かなり発達した文明が一度崩壊して、中世ヨーロッパレベルに戻ったような世界にいるらしい、という程度である。
そこで主人公である兄はとにかく病気の妹を助けて生き抜く、という近視的かつ絶対的な目標だけを与えられるのだ。
これが非常に強烈だから、他の世界観がどうでもよくなっちゃうんだよな。
このゲームの世界には言葉に力があるらしく、本が喋っても誰も驚かない不思議な世界なのだが、その辺が説明されなくてもあまり苦にならなかった。

その後もこの世界に関する情報はあくまで断片的に与えられていくだけである。
とはいえ、エンディング間近まで行かなくても、PS3版のタイトルであるところの「レプリカント」という単語や360版の「ゲシュタルト」という単語を思い合わせるとおおよその筋は見えてくる。
ああそういうことか、という話である。
さすがに今ここで書くわけにはいかないが。
サイドストーリーは追っかけていないので細部は確認していないが、私はわかった気になれた。
創り手が考えた世界と完全に一致していなくても構わないんだよね、私の中では。
最後の方なんか、ちょっとあざといような展開で、普通なら腹が立ちそうなもんだけど、意外と素直に受け入れられたな。
たぶん私はこの物語を自分のものに出来ていたのだろう。

振り返ってオープニングを考えてみると、あれはあれで良かったのかな、と私は思うようになった。
プレイヤーにゲームを説明したくなかったら、説明しなくても済むような演出を考える必要がある。
とにかく妹を助けるんだ、それ以外はどうでもいいんだ、ということをプレイヤーに擦り込む効果はあったんじゃないか。
あれがなかったら、最初ゲームに入りにくかったかもしれん。
そう考えれば、セカチューもまんざら悪くはなかったか。



<追加>
ゲームは譲り合いとも言えるか。
創り手はプレイヤーに寄与分を与えようと敢えて描いてないのに、プレイヤーは自分で考えるのイヤだから、全部そっちでやってよ、と思うことも多い。
プレイヤーの数でいえば、自分で考えたくない人の方が圧倒的に多いから、創り手が一から十まで面倒見なきゃいけなくなったともいえるだろう。


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