サイヴァリア リビジョン3

同じ価値をもって 2002_07_14

 

『サイヴァリア リビジョン』を私は終わろうとしている。
ここまで3ヶ月プレイしてきて、X-D面までは進めなかったものの、まずまず良くやってきたな、と満足しているのである。
この終わりというのは、私にとっての終わりであり、もちろん他のプレイヤーにとっての終わりではないはずだ。
しかし、じゃあ、これからも『サイヴァリア リビジョン』が新しいプレイヤー達に楽しまれ続けるかというと、そうではないだろう。
古くなるとゲームは価値を失っていくのである、これまでの例でいうと。

ところが。
私達は感じているはずである。
「シューティングゲームは既に飽和している!」と。
少なくとも2Dに関しては。
だって、新しいシューティングゲームを創ろうとすると、キャラゲーに走ったり、複雑怪奇なシステムを採用せざる得なくなっているじゃないか。
表示デバイス(モニタ)と入力装置(コントローラー)が変わらない限り、2Dシューティングは進化できなくなっているのだ。

一方で、逆にそれは、「2Dシューティングは古くならない」という事を示しているんじゃないか、と私は思うのである。
古くならないんだったら、これからも楽しまれ続けていいはず。
もっというと、2Dシューティングには限りがあるんだから、一本一本を大切にしていこうよ、ということである。
だって、勿体ないじゃない。

ただ、そのためには価値を統一しなければならない。
アーケードでプレイすること、コンシューマーでプレイすること。
コンシューマーであっても、機種間での差異があってはならない。
あたかも競技であるように厳格に規格を定める必要がある。
例えば、キャラクターの位置・動きを座標と時間の関数で表現するとか。
「PS2版って、微妙に違うんだよね」とか、マニアに言わせないようにね。

もし、全てのプレイヤーのプレイが等しく同じ価値を持つのであれば、良くできたシューティングゲームというのは時間を越えて、新しいプレイヤー達に楽しまれ続けるはずだと私は思うのである。
5年、10年、20年と時が流れたある日、私のスコアを抜きましたよ、という者が現れる。
「何を!よっしゃ、もう一回抜き返してやるぜ」とばかりに、もう一度『サイヴァリア リビジョン』をプレイする日が来たとしたら、大変素敵なことなんじゃないか。

もちろん、プレイに価値を求めること自体が間違っているわけだが、私達はそう突っぱね続けられるほどには強くないのである。



<追補>
これはあくまで、「2Dシューティングが飽和している」という条件下の話です。
決して、今やっても『ゼビウス』は面白いぜ!という類の話ではありません。


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