ポケットモンスター ダイヤモンド

主人公とプレイヤーの同一性 2006_10_26

 

『ポケットモンスター ダイヤモンド』もそろそろ終わりそうな気配が漂ってきた。
TV観ながらやってるから面白いけど、これ単体でずっとやってたらどうなんだろう。
凄くテンポの悪いゲームなので、きっとイライラしたんじゃないかという気がする。
いくら何でも表示遅すぎだよ。
人間が我慢できるぎりぎりのラインを狙ってきた感じだな。
なんでこんなものを全世界で何百万もの人たちがやってるのか、ちょっと不思議なぐらいだ。
しかし、逆になぜこのゲームがウケたのか、少し判った部分もあるのである。

今回、丁度発売日に「ポケットモンスター ダイヤモンド/パール」のアニメが放送されてて、総集編みたいなのを観た。
あれを観ていて、ああなるほどな、と思ったのである。
主人公とプレイヤーの同一性が非常に高いゲームなんだ、「ポケモン」ってのは。
ゲームの中で主人公がやってることと、自分が友達とポケモンバトルすることがまるで同じなのである。
このNDSの中にポケモンが入っているんだ!とさえ思うことが出来れば。

更にアニメが、ゲームと現実の距離を縮める働きをするんだろうな。
あれを見て育った子供たちには、より高い同一性が感じられるに違いない。
ポケモントレーナーとしての冒険をより強く自分のものに出来るのだ。
現実の世の中は子供に冒険なんかさせてくれないけど、ポケモンで遊ぶ子供たちは冒険の旅に出ることが出来るのである。
RPGという言葉の定義に立ち返るなら、恐らくこれほどRPGと呼ぶに相応しいゲームは他にない。

同一性の高さ、というのはゲームにおいて非常に大切で、『オペレーターズサイド』の時にも凄く感心した。
あれはシチュエーションを上手くいかして、同一性を高めたゲームである。
我々は今、NDSで入力装置によって置き換えの距離を近くし、同一性を高めることでゲームが面白くなることを経験しているし、恐らくその流れはWiiにまで続く。

しかし、マイクを使わなくたって、タッチスクリーンを使わなくたって、加速度センサを使わなくたって、同一性を高めることが出来るという事を「ポケモン」は証明して見せている。
同一性を高めることでゲームを面白くするアプローチは、これからもどんどん続いていくことだろうな。


戻る