歴史小説家の執るべき態度として、司馬遼太郎はこんな様なことを言っていた。 史実を曲げてはならないが、明らかになっていないことは創作して書いてもイイ、と。(極めていい加減な記憶) 江戸にいる坂本龍馬を京都に登場させてはならないが、江戸にいることだけ分かっていて何をしていたか分からないのであれば、江戸で桂小五郎と会っていたことにしても許される、という案配である。 ところが、司馬先生が火をつけた龍馬研究熱は、龍馬がいつどこで何をしていたかを事細かに判明させてしまった。 時代が近いから本気で探せば資料はいっぱい見つかってしまうのだ。 結果的に司馬先生の書いたことの多くが嘘になってしまったようである。 更に皮肉なことには、龍馬研究が進めば進むほど、我々が思っていたほどには幕末のキーパーソンでもなかったらしい、ということまでも分かってしまった。 今となっては、非常に書きにくい対象になってしまったようである、坂本龍馬は。 もちろん、この点に関しても、司馬先生は生前コメントを遺している。 龍馬を主人公して書こうと思ったのは、彼が偉大な功績を残したからではない。古今東西の誰と比較しても引けを取らない青春がそこにあると感じたからだ、と。(極めていい加減な記憶なので、ニュアンスだけ汲み取っていただきたい) そういう意味では、青春を描く余地は今でも残されているはずなのだが・・・。 このところ、DSの『維新の嵐 疾風龍馬伝』をプレイしていた。 今更こんなのをやっていたのは、ラジオを聴いていたら、たまたま「維新の嵐」という単語が出てきたからである。 そういえば、維新の嵐シリーズは一度もやったことがなかった。 もっとも、今作は思っていたのと違って、シミュレーションというよりは、RPGに近いような作品だったな。 パラメーターを上げて説得し、フラグを立てて回る、という感じ。 歴史のIFを楽しむ部分は小さかった。 佐幕シナリオに進めたり、龍馬が死なずに済む程度である。 DSだから、ライト層向けにあまり複雑にしなかったのかもしれない。 おそらくこのゲームの売りは、登場人物を生き生きと描いたところなんだろう。 会話は基本的に方言で書かれていて、一部のキャラはやや誇張気味である。 所々に手紙を挟んでいるあたりは、龍馬という人物をより身近に感じさせたい、という意図があったんじゃないかな。 龍馬の魅力が凝縮されているのはその手紙だって、よく言われるからね。 青春ってのは、輝ける未来があることを漠然と感じていて、何かをする時間はあるし、やる気もあるけど、何をしたら良いのかよく分からない、という感じのもので、そこを描こうとするのも悪くはないわな。 ただ、そこにプレイヤーの寄与はないんだよ。 誇らしいのはこれを書いたシナリオライターだけ。 プレイヤーの取り分は主に歴史のIFの部分のはずなんだ。 そこそこ遊べたのに、あんまり面白かったって言いたくないワケはそこいら辺にあるんだろう。 この手のゲームをプレイする人は自分なりの歴史観や人物像を持っているから、あんまり変に描き込まれても、取り分が失われていくだけだからね。 『采配のゆくえ』ぐらいはっちゃけていれば、また話は違うんだが。 |