花と太陽と雨と、シルバー事件

スミオは走るよ、どこまでも 2002_04_11

 

『花と太陽と雨と』はおかしい。
何がおかしいって、主人公「スミオ」は走らされすぎなのである。
もう延々と走る。
そこには何の芸もない。
あそこへ行け、ここへ行け、とただひたすら走る。
その間バックでは、「ピヨピヨピヨ」と小鳥がさえずっていたり、ちょっと小粋なミュージックが流れていたりするわけだ。
普通だったら激怒するところだが、なまじ変にゲームを組み込んでいないだけ、我慢できないこともない。

もちろんゲームというものは、時間を使わせなければならない。
ゲームの値段は5〜6千円もするのである。
しかし、本当にそれだけなのか?
「3時間で終わるよりは、たとえ文句を言われても10時間プレイさせた方が、総合的には成功するだろう。」
ただそれだけの理由でスミオは走るのだろうか?

私はそれだけではないと思う。
走る時間は、考える時間なのだ。
私はそのことに『シルバー事件』をプレイして気が付いた。
『シルバー事件』もやたらと間を長く取る構成になっているのだ。
もっとも『シルバー事件』では、その時間を画面効果によって埋めているわけなのだが。

私は考えていた。
ゆっくりと表示される文字を眺めながら。
3Dで表示されるフィールドをゆ〜っくりと進みながら。
ウインドウに表示される登場人物達にいちいちマーカーが表示されるのを見つめながら。
このゲームが何を言わんとしているのか。

私は先日、『シルバー事件』というゲームは「我々は柵の中で繁殖させられた家畜みたいなものだ」と言っているのではないか、と書いた。
また、『花と太陽と雨と』の時は、「人間というものはいつも刹那なんだ」と書いた。
それは「須田剛一」が考えたことではなく、紛れもなく私が考えたことである。
私は「須田剛一」の言わんとすることを探しながら、結局自分の考えたことを書いていた。
答えが明示されていない以上、その答えは自分にとっての答えでしかない。

つまり、「スミオが走る」ということは、そういうことなんでしょう?
PS2の開発が非常に難しかったか、開発費が取れなかったか、何らかの理由で演出を練り込めなくても、スミオは走らなければならなかった。
ねえ、そうなんでしょう?
だから私は走ったんでしょう?


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