『花と太陽と雨と』はおかしい。 何がおかしいって、主人公「スミオ」は走らされすぎなのである。 もう延々と走る。 そこには何の芸もない。 あそこへ行け、ここへ行け、とただひたすら走る。 その間バックでは、「ピヨピヨピヨ」と小鳥がさえずっていたり、ちょっと小粋なミュージックが流れていたりするわけだ。 普通だったら激怒するところだが、なまじ変にゲームを組み込んでいないだけ、我慢できないこともない。 もちろんゲームというものは、時間を使わせなければならない。 ゲームの値段は5〜6千円もするのである。 しかし、本当にそれだけなのか? 「3時間で終わるよりは、たとえ文句を言われても10時間プレイさせた方が、総合的には成功するだろう。」 ただそれだけの理由でスミオは走るのだろうか? 私はそれだけではないと思う。 走る時間は、考える時間なのだ。 私はそのことに『シルバー事件』をプレイして気が付いた。 『シルバー事件』もやたらと間を長く取る構成になっているのだ。 もっとも『シルバー事件』では、その時間を画面効果によって埋めているわけなのだが。 私は考えていた。 ゆっくりと表示される文字を眺めながら。 3Dで表示されるフィールドをゆ〜っくりと進みながら。 ウインドウに表示される登場人物達にいちいちマーカーが表示されるのを見つめながら。 このゲームが何を言わんとしているのか。 私は先日、『シルバー事件』というゲームは「我々は柵の中で繁殖させられた家畜みたいなものだ」と言っているのではないか、と書いた。 また、『花と太陽と雨と』の時は、「人間というものはいつも刹那なんだ」と書いた。 それは「須田剛一」が考えたことではなく、紛れもなく私が考えたことである。 私は「須田剛一」の言わんとすることを探しながら、結局自分の考えたことを書いていた。 答えが明示されていない以上、その答えは自分にとっての答えでしかない。 つまり、「スミオが走る」ということは、そういうことなんでしょう? PS2の開発が非常に難しかったか、開発費が取れなかったか、何らかの理由で演出を練り込めなくても、スミオは走らなければならなかった。 ねえ、そうなんでしょう? だから私は走ったんでしょう? |