『ギフトピア』が終わった。 前もちょっと書いたけど、さすがは任天堂ブランド。 終始きれーに誘導をかけていて、最後までつまることなくプレイし終えることが出来た。 変なストレスを感じることがなかったので、大変満足している。 面白かった。 おそらくPS2用の『チュウリップ』と同じ人が創ったんだと思うけど(全く同じだから)、かなり説教されたんじゃないかという気がしている、任天堂に。 『チュウリップ』では特大の意地を張ってみせたからね。 プレイヤーが次に何をするかを常に明示しなさい、ときつく指導されたんだろうと思う。 創り手は面白くなくても、プレイヤーはラクで助かる。 ところで、私はこの『ギフトピア』をプレイしながら、あることを考えていた。 ある事というのは、なんでこんなゲームを創るんだろうか?ということである。 それも2本続けて。 ゲームの構成を考えると、要するに尺を稼いでるんだよなあ、と思わざる得ない。 あっちこっち歩いて、悩みを抱えている人間を捜し、悩みを解決してあげる。 悩みを解決する方法を考える、一種の謎解きゲームなんだけど、プレイタイムの大半は目的地へ歩いていたり、奉納するためにキノコを拾って回ったり、ご飯を食べたりすることに費やされる。 それ自体が面白いか?と問われれば、NO!と答えることになるかも知れない。 もちろん、悩みを解決してあげる喜びはグレートだけど、それは別に歩き回らなければならないわけではないはずだ。 だからこそ、ユニークなキャラ達が必要なわけある。 なんて愉快なお馬鹿さん達! 彼らがいなかったら、この負荷には耐えられない。 つまり、私が思うに、このゲームは先にキャラがあったのではなくて、必要のためにキャラが生まれたんだろう。 それは負荷を乗り越えさせるために喜びを大きくしてやろうというアプローチ。 じゃあ、なんでわざわざそれ自体が面白くないことをゲームに組み込まなければならないのか?という疑問が湧くのは当然のことである。 それはやっぱり「人生をゲームのモチーフにしたい」ということなんじゃないか。 ゲームにしづらい内容をどうにかしてゲームにしていく為の手法。 そしてそれはゲームの役割でもある。 なぜならばゲームは自ら何かしらするものだから。 たとえ指を動かすだけでも、何かしているから、それを自分のこととして考えられるのだ。 それがゲームの素晴らしさ。 ゲームというのは本当に素晴らしいポテンシャルを持っている。 この『ギフトピア』っていう作品は、 「ゲームに課せられた役割を果たしたい・・・」 そんな使命感に燃えた人々が創ったんだろうと私は感じている。 残念なことに任天堂ブランドでもそんなに沢山は売れないんだけど。 |