ゲームにフラグは付きものである。 特に私たちが遊んでいるTVゲームという奴は、プログラムで動いているから尚更だ。 「フラグ」というのはプログラム上の分岐条件とでも言うべきもので、これがないとプログラムは組めない。 どんなプログラムであれ、必ずフラグは必要になるのだ。 しかし、我々が普段ギャルゲーなんぞをやっていて「フラグをたてて回る」などと言うのは、ちょっと意味合いが違う。 あれはストーリー上のフラグをたてて回っているのである。 もちろんストーリー上のフラグをたてることは、プログラム上のフラグを立てることにもなるのだが。 私はこのところ『ときめきメモリアル3』(以下『ときメモ3』)を進めてきた。 少しずつなのだが。 そして、本当にこれで良かったのかな、と思うのである、私たちの選択が。 『ときメモ3』が生臭くなってしまっているのだ。 『ときメモ3』にはフラグ要素が多い。 『ときメモ2』から既にそうだったように思う。(やり込んでないので確信はない) どうもストーリー上のフラグを立てておかないと、クリアできなかったり、重要なイベントが発生しなかったりするようだ。 この辺は『ときメモ1』とは随分と異なっているな、と感じている。 『ときメモ1』にあるのは、パラメーター上のフラグである。 どうして、こういう構成になったのかというと、あからさまに「各キャラを攻略する」ゲームとして『2』『3』が作られたからだろうと想像している。 一方、『1』の場合は、詩織ちゃんを攻略するのが基本線なのである。 だから何回もプレイすることが前提となっていたし、そのフラグはパラメーター上のフラグだったはずだ。 ところがこれを我々は拒絶した。 「我々」というのは、おそらくコアギャルゲーマー達だろう。 SS版『ときメモ』で既に、自分から告白できるようにして欲しい、という要求を出してクリエイターに受け入れられているのだ。 これは要するに、狙ったキャラを確実に攻略したい、ということであり、思い通りにならないのは嫌だ、という意思表示である。 そうすると、プレイヤーは各キャラあたり、一回しかプレイしないことになるだろう。 これは困ったことで、キャラの断片を示すことによってプレイヤーの中にキャラクターを構成させる、という「ときメモスタイル」が成立しなくなってしまう。 だからストーリーを織り込まざる得なくなる。 更に狙っていないキャラが告白してこないように難易度を下げた結果、ストーリーの中にフラグを入れてゲーム性を稼ぐことになったようだ。 『ときメモ3』は「ときメモ2スタイル」の続編なので、尚更ストーリーもフラグもデラックスになり、やたらと劇的なのである。 だから生臭い。 私はこれは仕方のないことだろうな、と思うのである。 確実に応援してくれる層に向かってゲームは作られてしまうのだ。 そして我々はそれを望んだ。 しかし、もしクリエイターがあの要求を突っぱねてくれていたら、どうなっていただろう?とも思う。 やり直せるものなら、やり直してみたい。 果たして自分がそのゲームに耐えられるのかどうかは、わからないのだが。 |