スーパーダンガンロンパ2、特殊報道部

現実とフィクション 2012_09_12

 

アドベンチャーゲームをやってると、主人公の行動に納得が出来なかったり、お話の展開が理不尽に感じられて、素直に楽しめないことが多い。
どうも私のルール・世界観と違うんだよね。
そんな行動するわけないだろ、とか思うと、一気に興が冷める。
しかし、その一方でハチャメチャな話でも楽しめることはあった。
たとえば、「逆転裁判」とか「ダンガンロンパ」なんかがそうだ。
理不尽きわまりないけど、そんなこと気にならない。
その辺の違いはどこにあるのか、ということを私は考えていた。

先日までプレイしていた『スーパーダンガンロンパ2』なんかだと、最初から現実世界じゃないと思わせるような表現が散見された。
いかにも平面ポリゴンにテクスチャーを貼ってます、と強調するようなCGだし、オーバーテクノロジーがバンバン出てくる。
おそらく電脳世界なんだろうな、と早い段階で想像がついた。
だから多少おかしなことがあっても気にはならなかった。

今プレイしている『特殊報道部』は、『流行り神』をテレビマン視点で描いたような作品である。
『流行り神』よりはややSF寄りかな。
オカルトに宇宙人にMIB(メンインブラック)、もうなんでもあり。
私はそもそもこの手がお話が好きではないけれども、そういうゲームだって知ってて買ってるんだから、そこは飲み込めたよ。

てことは、最初から明白なフィクションですとプレイヤーに伝えておけば、少なくとも反発は回避できる、ということなのかもしれない。
少なくとも私に関しては。
じゃあ、全てのアドベンチャーゲームがそういう前提に立てばイイじゃないか、と言えそうだが、やはりそうでもない。
明白なフィクションです、ということになると、現実のルール・価値観を適用できなくなったり、あるいは軽くなったりするはずである。
現実世界では、普遍的に人の命は重いし、世界が崩壊してはいけないわけだけど、フィクションだという前提なら、人が死のうが世界が壊れようがどうでもいいからね。
フィクションです、というなら、ルールなり世界観なりを改めて創作してプレイヤーに飲み込んでもらう必要がある。
一般的な人が死ぬんじゃなくて、死んで欲しくないキャラが死ぬということでないと、おそらくフィクションの世界では通用しないだろう。
『スーパーダンガンロンパ2』なんかが優れているのは、死んで欲しくないキャラクターをしっかり描けているからじゃないのかな。
『特殊報道部』では、「この娘とこの世界とどっちを取る」的な話が出てくるんだけど、どっちもそんなに大切とは思えなくて、気持ちがあんまり盛り上がらなかった。
凄く大事なものなんだというプレゼンテーションを受けていない気がしてね。
主人公の言うことが酷く白々しく感じた。

結局、現実の力を借りるなら現実のルールを守らなければいけないし、現実の力を借りないなら、その分世界を作り込んでプレイヤーに提示しろってことじゃないかな。
ただし、プレイヤーは新しいことを基本的には受け入れたくない。
面倒だからね。
そこを乗り越えさせるだけの面白さなり何なりを持っていることも必要だ。
だから、多くのゲームを含む創作物において、現実世界をベースにしながら都合のいいところだけマイルールを適用しているんだろう。
それに対して私が、我々が反発したとしても、それは致し方がないことなのではないか。


戻る