ラジアントヒストリア

どこまでハッピーに出来るか 2011_01_19

 

少々気恥ずかしい話だが、今頃「涼宮ハルヒの消失」のDVDを観たあげく、西尾維新の『傾物語』を読んだ。
いい歳こいてなにやってんだ、という話は置いて於くとして、しかしまた酷いな。
何でもかんでもタイムトラベルすりゃいいと思いやがって。
私がそういうのばっかり観賞してるから悪いんだが。

そもそもタイムトラベルなんてのは出来るはずないから、とやかく言っても仕方ないのだが、仮に出来たとしてもだ。
勝手に過去を変えていいわけないじゃん。
その世界には普通に生きてる人がいるわけだよ。
ちょっとでも過去をいじったら、未来に向かってどんどん変化していく。
変わることによってハッピーになる人がいる反面、おそらく同程度にアンハッピーになる人もいるはずだ。
飛び降り自殺の下敷きになった人は50センチずれたら助かるけど、他の人が下敷きになるかもしれん。
がん細胞が発生するかどうかなんて単なる確率の問題で、サイコロ振り直せば生死が変わるわけだよ。
その責任取れるの?
その責任に耐えられるの?って私は思うけどな。
軽率すぎるよ、あらゆる意味において。
そういうところが正に「ライト」ノベルといわれる所以かもしれんがね。

軽々しくタイムトラベルはするな。
物語は創りやすくなるかもしれないが、使った時点で創作する者として敗北していると思っていただきたい。
そんなことを考えているとき、また似たような話のゲームを始めてしまった。
まあ、でも実はそんなに悪い気はしていない。
歴史を変える、ということがゲームに寄与する部分は当然にあるな。
このところ私がプレイしていたのは、『ラジアントヒストリア』。
これはなかなか面白いゲームだった。
例によってあんまり説明するつもりはないのだが一行で書くなら、2つの平行世界を行き来しながらあるべき姿に歴史を書き換えるRPGである。
戦闘システムなんかも独特で新鮮みがあったけど、ここでは触れないことにする。

歴史をあるべき姿にするわけだから、基本的には何をやろうがルートは決まっているわけである。
二つの時間軸を間違いを正しながら進んでいくにしても、最終的には同じ結末にたどり着く。
そこにプレイヤーの寄与分はない・・・かというそうでもなかった。
というのも、物語の途中でサイドストーリーが発生するように創ってあった。
サイドストーリーの消化具合によってラストの展開が少し変わるけど、大筋には影響がない。
でも、少しアンハッピー。
これをどの程度ハッピーにしますか?ってところにプレイヤーの裁量があるんだな。

私もいったんエンディングを観てから、せっせとサイドストーリーこなしたよ。
真のエンディング見たいからさ。
もっとも見たからといってどうという訳じゃなかった。
明示されなかったものが明示されてスッキリした、という程度である。
しかし、終わったときは自分で物語を創った、的な満足感はあったな。
極めて高い満足に私は包まれていた。
やっぱり見せられるだけなのと、曲がりなりにも自分でやったという体裁があるのとでは、得られる感覚はちょっと違うんだ。
理屈を並べ立てて文句を言う気にはならなかった。

まあ、文句言いながらも観たり、読んだり、やったりしてるってことは、私がそういうのを許容出来る人間だってことなんだろうけど。


<追加>
『The 3rd birthday』やり始めたら、これも過去に戻る話だった。
ちんぴょろすぽーん!


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