私は狭義のゲームを負荷であると定義する。 負荷であるという意味においては、仕事も勉強もスポーツもテレビゲームもみんな同じものである。 実際、テレビゲームやってて辛いなあと思うことは多い。 にもかかわらず、わざわざお金を出して我々はなぜテレビゲームをやるのか? それは現実世界よりも得をするからだ、と私は考える。 多くの場合、それは置き換えによって実現される。 ただ30時間だらだらコマンドを選ぶだけで世界を救えたり、普通には乗れないスーパーカーに乗れたり、場合によっては通常は許されない殺人を犯すことも出来るだろう。 得をすることこそがテレビゲームの本質であると考えるならば、QTEは決して悪くないシステムであるはずだ。 簡単な入力で、迫力のムービーシーンを堪能できるんだから。 しかしながら、QTEが褒められているのをみたことがない。 大抵みんな文句を言う。 一方でそれもまた、得するという観点から説明することが可能なのではないか。 『バイオハザード6』をプレイしていて、そう思った。 『バイオハザード6』ではQTE的なシーンが一杯出てくる。 といっても単純なQTEだけではない。 通常操作でシーンをつくっていく演出も沢山用意されている。 おそらく「アンチャーテッド」シリーズあたりの影響を受けているのではないか。 ところが、これがあんまり嬉しくない。 なぜ嬉しくないのか? まず、QTE的なシーンにおいては大した入力をするわけではないので、狭義の意味でのゲームの喜びは小さく、繰り返し行っても喜びは増加しないだろう。 そして、映像から得られる喜びは、最初にみたときが一番大きいことは想像に難くない。 限界効用逓減の法則である。 とすると、QTEが一番得をするのは、一回でクリア出来たときなんじゃないか。 なまじっかQTEであってもゲームにしたいと思ってしまうと、繰り返し同じシーンをプレイヤーに見せることになる。 そうするとプレイヤーは損した気分になるだろう。 1プレイあたりの時間が固定されていて、喜びはどんどん減っていくんだから。 必然的に喜び密度は減少していく。 通常、苦労してクリアするとゲームはより面白く感じられるはずなんだけど、QTEに関してはたぶん逆だ。 苦労させない方がいい。 得を狙うなら徹底して得させる判断が正しいと私は思う。 『バイオハザード6』をやってて何回かやり直させられることはあった。 どうしても多少ゲームを織り込みたい衝動が働くんだろう。 イベントボスから逃げるシーンで、必ずスライディングさせられるところなんかはそうだった。 シーンを演出するために引き絵になるんだけど、そうするとスライディングのタイミングがわかりにくいんだ。 何回か死んでむかついたんだけど、ああいうのは、とりあえずボタン押してたら上手くいったことにしてしまえばいいのではないか。 初見でクリアできてしまっても、プレイヤーはおそらく文句は言わないだろう。 ゲームを織り込もうが織り込むまいが、どのみち誰も褒めてくれないんだから、そんなところで勝負しなくてもいいんじゃないか。 |