FF9

悪いことでもなんでもない 2001_02_03

 

『ファイナルファンタジー\』(以下FF9)が終わった。
えっ、ビビはやっぱりそうなったの?なんて、ちょっと気になったりしている。

正直なところ、まずまず面白かったと思う。
現実をふり返るにゲームなんかしている場合じゃないのだが、スルスルとエンディングまで辿り着いてしまったという感じだ。
苦しさはほとんどなく、面白さのみが延々と続いたという印象を持っている。(ラスト周辺を除く)

しかし、う〜ん、とも思うのだ。
じゃあ、すんごい面白かったか?といえば、そうでもないような気がする。
感情移入することは出来なかった。
ひどく物語が白々しく感じられたのである。
言い方を変えれば、人形劇を見ているような気分だったと言ってもいい。

私は主人公「ジタン」に「HIV」という名を与えたが、このゲーム史上もっとも物わかりのいい男は、どうも自分とは思えなかった。
では、それ以外の登場人物の中に自分を見いだすことが出来たかと言えば、やはり出来なかった。
強いて言えばビビに心惹かれたが、ビビの悲しみはやはりビビのものでしかなかった。
いうなれば私は傍観者だったのである。
こういう状況では、もはや「Role Playing Game」とは呼べないかもしれない。

どうしてこういう作りになったのか?
考えてみるに、やはりメインキャラが8人いるからではないだろうか。
では、どうして8人の主人公が必要だったのだろう?
もちろんストーリーメイキングの必要性は認めざる得ないが、それ以上にやはりFF9が誰にとっても面白いゲームでなければならない宿命を負わされていたからだ、と言うべきだろうと考えている。

主役級のキャラを増やすということは、要するに物語の切り口を増やす、ということである。
一つの切り口から見せるよりも、たくさんの切り口から見せた方が、より多くの人にフィットする可能性が高い。
RPGとしての基本線をきちんとつくった上で、さらなるプラスαを誰の上にも!という思想だったのではないかという気がするのだ。
その結果として一つ一つの切り口が浅くなり、どの切り口も追いかけられない。
私が感じていた白々しさというのは、そういうことだったのではないかと感じている。

じゃあ、FF9はダメなのか?といったら、そうではないと思う。
千差万別のプレイヤー全てに喜んでもらおうというのは、決して間違いではない。
FFシリーズはそういうものになりつつあるんだ。
例え白々しくても、人形劇でも構わない。
良くできた人形劇として、それも飛び抜けて上等な人形劇として評価されていい。
それは悪いことでもなんでもない。


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