スーパープリンセスピーチ

お姫様に許されること 2005_11_14

 

ゲームというのはこうやって創られるのか、と感心させられた。
キャラクターから全てが導き出されるんだな。
『スーパープリンセスピーチ』がそのことを教えてくれた。

この『スーパープリンセスピーチ』というゲーム、最初にさわった感じはあまり良くなかった。
あらゆる意味において優しくて(難易度の話ではなくて)、刺激はまるでない。
良くできているとは思うが、ハマリ込むような感覚はなかった。
私がこのゲームに惹きつけられ始めたのは、ステージボスクリア後の中間デモを見てからのことである。

この中間デモの主役は、ピーチ姫ではなくカッサーである。
魔法をかけられて傘になってしまったカッサーがなぜピーチ姫と一緒に闘うことになったのかを説明していく。
ところが、私の目はカッサーの傍らで焚き火の番をしているピーチに惹きつけられた。
ええっ!!お姫様が焚き火の番すんの?って。
これがまた、トボケた顔なんだ。
なにせドットが粗いから、鼻だか口だかよくわからないのだが、お姫様がのんきに焚き火している姿が酷くユーモラスに思えた。
勝手に行動していつも捕まってしまうピーチ姫だから、焚き火ぐらいは許されるのかもしれない。

それからというもの、私はピーチの姿に注意を払ってプレイしてきた。
そしてなるほどな、と思ったのである。
走るときはやっぱりスカートの裾を持って走るし、飛び降りるときは裾を抑える。
スライディングすれば、ひらひらスカートがブワワッと広がるんだな。
お姫様にはそれが必要なのである。

そして、ゲームの核である生きたアイテムのカッサーもピーチから導き出される。
お姫様のピーチがあんまり色んなことが出来たら不自然だし、特別なアクションをするからには、それなりの言い訳が必要になる。
だから何かアイテムを持たねばならないわけだが、お姫様に相応しいものでなければならないのである。
そうしたら、これがまた具合の良いことに貴婦人が持つ日傘のイメージからカッサーが出てくるんだな。
そこから落下時のパラシュートだとか、ひっくり返して船にしたり、柄をフックに使う、というイメージが湧いてくるだろう。
統一感のある素晴らしい世界の広がりだな。
見れば見るほど感心する。

ピーチのアクションを見ているうちに、私はこの『スーパープリンセスピーチ』が好きになった。
激しさはないけど、これはこれでイイ、と思えるのだ。
一応エンディングを見るところまではやったのだが、オールコンプリートしてみたいと思えるところまで自分を持って来ることはできたな。



<余談 2005_11_18>
これは全くの余談なのだが、「喜怒哀楽」をゲームに組み込むのも、ピーチ姫が女性であるところから導き出されたのではないか、などと考えていた。
こんな事を書くと女性に怒られてしまうかもしれない。
私は「ヒステリー」との類似からそう思うのである。

「ヒステリー」というのは古来より女性に起こるものだと考えられていたらしい。
というのも「ヒステリー」というのはギリシャ語の子宮を意味する言葉に由来するのである。
また、「ヒステリー」は人に見せるために起こすもので、人がいないときは起きない、あるいは一人の時に起こすものは「ヒステリー」とは呼ばないようだ。
しかし、私は性別ではなく、社会性の問題だと思うけどね。
人に見られても構わない人がヒステリーを起こすわけで、見られて困る人は起こさない。
おそらく女性であっても、男性と肩を並べて働いている人はヒステリーなど起こさないのではないか。

「喜怒哀楽」ってのは感情の発露であると思うのだが、それはそのまま表に出すことが出来るかというと、なかなか日常そうもいかないことが多い。
ヒステリーと同じで、見られて困る人は表に出さないのである。
「喜怒哀楽」をゲームに組み込むからには、それなりに適正があるだろう。
例えばマリオから「喜怒哀楽」は出てこないんじゃないか。
やっぱりピーチ姫だから「喜怒哀楽」が出てきたんだろうな、などと私は考えていたのである。



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