奈落の城 一柳和、2度目の受難

空想する方が楽しい 2008_04_22

 

『奈落の城 一柳和、2度目の受難』をプレイし始めた。
プレイヤーがただ謎を解くだけでなく、事件を未然に防ぐことが出来る画期的なアドベンチャーゲーム『雨格子の館』の続編に当たる作品である。
あれは今どきの、と言っても20年ぐらい前からそうなんだけど、誰でも解けるアドベンチャーゲーム界に一石を投じた点で非常に評価されるべき作品だった。
もちろんそれはゲームとして負荷が大きい事をも意味しているのだが、それはやむを得ないことだと理解した上で続編をプレイし始めたのである。

ところが、プレイし始めてそれと少し矛盾した感覚をもった。
この点について書いてみたいのだが、これは多少のネタバレになっているかもしれない。
「かもしれない」というのは、私がまだこのゲームを解いていないからで、これから書く私の推測がまるでデタラメなのかどうか、私にも分からないのである。。

このゲームのタイトルである『奈落の城』というのは、城自体が地面に埋まっているところからきているらしい。
要するに吹雪の雪山とか海底基地なんかと同じで、脱出することが出来ない状況に登場人物達が追い込まれるわけである。
舞台がヨーロッパの古城だったり、その割に日本語が話せる人ばっかりだったり、舞台設定がやや強引な事もなくはないが、そこは飲み込むべきであろう。

で、私は最初の事件が起こった段階で思ったのである。
これ、全部お芝居じゃねえの?って。
Aは実は死んでいなくて、医者がグルになって嘘をついているんじゃないか。
吊り橋もホントは落ちてない。
監視カメラの映像は録画だろ。
あの爺さんは実は存在しなくて、Bが化けているんだよ。
これはCが仕組んたサプライズパーティーなのだ!
という具合に考えた。

この考えているときが、凄く楽しかったのである。
頭の中でストーリーが組み上がっていくのって楽しいな。
それに比べて、分単位でアリバイを調べたり、証拠を集めたりするのは、メンド臭いばっかりでなんか面白くない。
システム面がまだ洗練されていないからでもあるのだが。
具体的な証拠を詰めていくより、大まかなストーリーを想像している方が楽しいというのが極めて素直な感想である。

これは困ったことだな。
この言い分じゃあ、本でも読んだ方が面白いことになってしまう。
うまいこと推理する喜びをゲームに落とし込んでいく方法はないものだろうか。
自分の考えていることをゲームの中で実行することが非常にメンド臭いんだよな。
何とかならんものか。

今のところ、このシリーズがどれほど頑張っても、プレイヤーは創り手の思考をトレースしていくより他にない。
かといってプレイヤーの裁量を大きくすると、おそらくゲームとして成立しなくなるだろう。
アドベンチャーゲームってのは難しいな。
だから売れなくなったんだろうけど。


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