絵本のちから

絵本のちから 2007_12_03

 

たまたまなのだが、このところ絵本づいていた。
『スーパーマリオ ギャラクシー』の中にも絵本が登場するし、『アナタヲユルサナイ』でもクリア後に絵本が選択できるようになる。
また、最近私が思わず買ってしまった『英語を食べる不思議な生き物 Marsh』という作品に至っては、それそのものが絵本であった。(書籍扱い、macromedia動作)
そして、それぞれに私は非常に惹かれていて、どうも絵本には独特のちからがあるらしい、と感じ始めているのである。
一言で言ってしまうと、それは「捨象と抽象」という一対の言葉で表現できてしまうかもしれない。

『ギャラクシー』の中の絵本はご褒美的位置づけなのだが、同時にこのゲームを説明する役割持っているらしい。
何か教訓でもあるのかと、涙を堪えながら何度も読んだけど、どうも教訓があるわけではないようだ。
チコ(星の子)のママが人間の姿をしていることに対する説明として絵本を使っているように思われる。
絵本を使うと「チコを見守りたい」という思いの方が強調されて、なんでチコのママが人間の姿をしているの?という疑問が消し飛んでしまう。
絵本には物語の整合性をうやむやにしてしまうちからがあるんだな。
『英語を食べる不思議な生き物 Marsh』にも同様の事が言えるかもしれない。
絵本の最後の方に「いつまでいても良いのよ」ってセリフがあるのだが、絵本で読むと強調されるんだな、母性が。
Marshという存在が許されるかどうかという議論は飛んでしまうのである。

『アナタヲユルサナイ』の絵本は、クリア後のオマケとして選択できるようになる。
劇中の登場人物が描いた、という設定だ。
物語の最後を受けて大幅に描き直したというので、どこを描き直したのかと何回も読んだのだが、結局どうもよく分からなかった。
描きかえる前を知らないからね。
ただ、非常に救いのない物語なんだけど、救われないこともないという不思議なお話ではある。
物語の残酷さを絵本が排除して、むしろほほえましさすら感じさせるんだな、これが。
絵本にはそういうちからがあるのである。
言葉よりも絵から受ける印象の方が優勢だからだろうな。

今までも絵本はゲームにしばしば使われてきた。
使い方としては物語の導入で使うか、オマケとして使うか、といったところだったと思う。
しかし、もっと使い方はあるかもしれないな。
おそらく私がたまたま同時期に3つの絵本に出会ったというのも、偶然ではないんじゃないか。
積極的に絵本を使ってやろう、と考える人が増えて来ているんじゃないかと私は思うのである。
あんまりみんなして使うと安っぽくなっちゃうけどな。


戻る