零 〜濡鴉ノ巫女〜

人為的なルールではダメ 2014_10_12

 

私はあんまりオカルトが好きじゃない。
まあ、その話はまた別の機会に書くとして、もう一つ言うなら、私は猛烈なイラチである。
それも歳をとるにつれて、どんどん酷くなっている。
テンポが遅いゲームは我慢できない。
感動を誘う映画だって普段1.5倍速で見てるぐらいなんだから。
そんな私であれば当然、Wiiで発売された『零 〜月蝕の仮面〜』なんかはまるで楽しめない。
興味が無い上に、ゆっくり動くのが我慢できなかった。
もう二度とやりたくない、と思っていたのだが、そうもいかなかったな。
だって、タブコンをカメラに見立てて使うのって、同一性の観点からはこれしか思いつかないというぐらいでしょ。
どうしても、WiiUの『零 〜濡鴉ノ巫女〜』はやっておかなければならないゲームだったのである。

やってみた感触としては、『月蝕の仮面』よりはプレイしやすかった。
慣れもあるんだろうけど、タブコンをカメラに見立てて使うのはまずまず悪くない。
しかし、カメラというモノの性質まで考え合わせると、実はそれほど簡単な問題ではないことにも気付く。
というのも、カメラで撮影するのは得をする行為であっても、カメラで攻撃することは得につながらないかもしれないと思うからである。

まずここで、カメラで撮影するときのことを考えてみる。
家族の写真を撮る、綺麗な風景を撮る、グラビアアイドルの水着写真を撮る。
こうやって列挙してみると、カメラで撮影することの価値は撮影することそのものにあるのではなく、被写体の方にあることがわかる。
この『濡鴉ノ巫女』でいえば、薄着の綺麗な女性が濡れそぼっている姿を撮影することは嬉しいだろう。
心霊写真を撮ることも、まあ価値があるんじゃないか。
心霊写真を認めるかどうかは別にしても、そう呼ばれるモノがあって、テレビや雑誌で特集されているのを我々は知っているわけだから。
つまり現実に価値があるとプレイヤーが思っていることを置き換えるから、得をするのである。

一方で、悪霊を撮影するとダメージを与えられる、というのはどうだろうか?
それはゲームのルールだよね。
単なる人為的な取り決めに過ぎない。
そもそもその行為が価値を持っているわけじゃないんだ。
つまりカメラで攻撃することをタブコンに置き換えても、それほど得をしているようには感じられないのではないか。
リモコン+ヌンチャクに慣れている人はタブコンを使うことに意義を見いだせないかもしれない。

こう考えていくと、タブコンをカメラに置き換えたからといって、それが即座にゲームを面白くすることにつながるわけじゃない、という結論になる。
撮影する対象に価値を見いだせなければ意味がないんじゃないか。
カメラとして使うにしても、意外とタブコンの使い道は限定されるかもしれないな。




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