黄金の太陽〜失われし時代〜

かたちを変えて今も 2002_07_14

 

『黄金の太陽〜失われし時代〜』に着手した。
続編だけあって、前作に比べるとかなり骨があるなあ、と感じている。
私は何をしたら先へ進めるだろうか、と「エナジー」を眺めているうち、あることに気が付いた。
今回はそのことについて書きたいと思っている。
しかし、そのためには、まずアドベンチャーゲームにおける入力形式の変遷を書かなければならない。

私がゲームを始めた頃、アドベンチャーゲームはコマンド入力形式だった。
当初は英語でプレイするモノが多かったので、子供だった私は辞書を引き引きプレイしたものである。
例えば、鍵を取るときは「take key」と入力する。(例えば『Mystery House』)
入力は「動詞+名詞」で行うのだ。
後に日本語のゲームが現れると、それは「トル カギ」になった。(例えば『サザンクロス』)

私達は物語を先に進めるためにどうしたらよいのかをイメージし、それをコマンドに変換した。
これはなかなか凄いことだった。
だって、「ウタウ ウタ」で門番を気絶させるなんて思いつくと思う?なんのヒントもなしに。
主人公が音痴かどうかなんてわからないんだよ。
私達はそういうイマジネーションの世界に遊んだ。

しかし、これには問題があった。
プレイヤーの思う単語と、プログラマーの思う単語が一致しない場合が往々にしてあるのだ。
先ほどの例でいえば、プレイヤーが「トル カギ」ではなく「ヒロウ カギ」だと思ってしまった場合、ゲームが進まなくなってしまう。

そこで登場するのが、選択肢タイプのアドベンチャーゲームである。
どのゲームが先駆けになったのかは判らないが、『オホーツクに消ゆ』なんかは代表的な作品である。
もっとも、これにも問題はあった。
もう出た当初から、「選択肢を全部選べばクリアできちゃうんだから意味ないじゃん!」と言われていたのである。
それでもその後、選択肢型はコマンド入力型を駆逐することになる。
結局選択肢タイプの方が楽だったからだろう、プレイヤーにとって。

今思えば、ここでアドベンチャーゲームの質的変化が起きていたわけである。
謎をプレイヤーが直接解くのではなく、ストーリーの中で主人公が解いたことになっていればいい。
プレイヤーが楽しむのは「謎解き」ではなく「謎を解くストーリー」なんだと。

かつて私達の遊んだアドベンチャーゲームの世界は完全に姿を消した・・・、と私は思っていた。
ところが。

ようやくここで話は現在に戻る。
『黄金の太陽〜失われし時代〜』のプレイ中、私は「エナジー」を眺めていて、「あっ、これ動詞なんだ」と思った。
「エナジー」というのは、超能力のようなモノで、「ムーブ(動かす)」・「プレス(押しつぶす)」・「リード(心を読む)」などがあり、それを使って謎解きをするのだ。
つまり、「動詞」はクリエイター側で決めておくから、「名詞」の方は自分で入力してね、というアドベンチャーゲームと同じなんじゃないか。
コマンド入力型アドベンチャーゲームの進化版とでもいうのか、選択肢型との折衷案とでもいうのか。
もちろん、見た目は全然違うんだけど。

『黄金の太陽〜開かれし封印〜』の時には気付いてなかった。
なんかえらい懐かしい喜びだなあと、漠然と感じてはいたんだけど。

この喜びの凄いところは、謎解くことそのものが楽しいこと。
ストーリーとかどうでも良いんですよ。
それが証拠に、『黄金の太陽〜失われし時代〜』というゲームの内容が判ってなくても楽しい。
前作と時間が空きすぎていて、ゲームが体の中にスッと入ってきてないな、と感じているのに楽しい。
かつて私達が感じていたゲームの喜びというのは、今も形を変えて目の前にあるわけだ。
嬉しいじゃありませんか。


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