どうぶつの森+

ゲームの中に街を作る 2002_02_04

 

ゲームの中に街・村を作ったら面白いんじゃないか。
そんなことは誰でも考えつくことである。
子供の頃、私も思いついた。
また、ネットワークの世界で実際に街をつくった例は既にあるらしい。
そして、いま私たちの目の前には『どうぶつの森+』がある。

私は『どうぶつの森+』をプレイしていて、かつて自分の考えていた「ゲームの中の街」というもののあり方が根本的に間違っていた事に気付かされた。
私の考えていた「街」というのは、ゲームの集合体だったのだ。
当時私が面白いと思った『東京ナンパストリート』とか『ファミリーテニス』とかを組み合わせて街を構成するのである。
しかし、そんなゲーム作りはあり得ない。
だって、個々のゲームが独立した一本の価値を持っているのに、それを何十も組み合わせて一本の作品に出来るはずはないだろう。
じゃあ、どうすればいいのか?
その答えの一つが『どうぶつの森+』の中にあった。

それは「ゲームを排除する」ということ。
『どうぶつの森+』はゲームのはずなのに。

私は「ゲーム」というものは負荷を乗り越えることだと思う。
言い方を変えれば、「上手くなること」としても良いかも知れない。
ゲームというものは、やれば段々と上手くなっていくものである。
それがゲームの喜びだともいえる。
だが、上手くなってしまったら、もうプレイヤーを惹きつけることは出来ない。
だから「上手くなる」というような要素を切り捨ててしまおう、というのが『どうぶつの森+』なんだと私は感じた。
多くの「このゲームの一体どこが面白いのか分からないけど、なぜか遊んでしまう」という『どうぶつの森+』評がそれを証明しているのではないか。

では、「上手くなる」要素を排除してどうするのか、というと、「何かすること」だけを組み込んだ。
「何かすること」というのは、ホントに何でもいい。
草抜きでもいいのだ。
実際、私は草抜きばかりやっていた。

あとは何とかプレイヤーを、この「どうぶつの森」に引き留める努力をするだけ。
おそらく、ここがこのゲームのポイントなのではないかと私は思っている。
このゲームは総プレイタイムを稼ぐことを目的とはせず、出来るだけ長い期間にわたってプレイヤーを「どうぶつの森」に引き留める事を目的としているのだ。
そのわけを私がどう考えているのかは、このゲームをやめると決意したときに書きたい。


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