難しいゲームと簡単なゲーム、クリアした際に払われる敬意はやはり難しいゲームをクリアした方に多く表される。 それは大抵ご納得いただけるのではないか。 FFクリアしても誰からも褒められないけど、難しいシューティングゲームをクリアすれば、褒めてくれる人がいそうな気がするでしょ。 このことはプレイする側だけではなく、創る側においても同じことが言えるのではないか。 ゲームを創ることもまたゲームなんだから、ま、当たり前と言えば当たり前のことである。 『逆転検事2』をプレイし始めてしばらく、実はあんまりこのゲームは褒められない、いや、ゲームじゃないか・・・、このゲームのクリエイターは褒められない、と感じていた。 というのも、物語を創ることが簡単そうに思えたからである。 確かに、物語は逆転逆転・・・とまでは行かないけど、どんどん展開はしていく。 面白い。 しかし、やりたい放題じゃないか。 「逆転裁判」だったら証拠集めと裁判が完全に分離しているから、裁判に入っちゃったら基本的には内容を追加出来ない。 ところが、「逆転検事」は現場でやり取りしてるから、いっくらでも証人や証拠を追加出来ちゃうんだよね。 ちょっとやっては新規な情報、ちょっとやっては新規な証言、という具合にどんだけでも足せるんだ。 それってなんか狡くないか? そりゃボリュームも稼げるってもんだよ。 結構話の内容はメチャクチャでしょ、「逆転裁判」にせよ、「逆転検事」にせよ。 今回のは特に酷かった。 裁判官が検事のアシストするのオカシイだろ、とか指摘しだしたらキリがない。 そこは制限のある中で苦しんで創ってるからこそ、こっちも目をつぶってやろうと思えるわけですよ。 でも、こんな自由に話を展開出来るんなら、もっと納得いくものにしてもらわんと、素直に受け入れられないよなー、なんて第2話ぐらいまでは思っていた。 最終的にはケチをつけるよりは褒めたい気持ちが勝ったけど。 まあ、遊ぶ側からすれば、創り手が苦しんでいようがいまいが関係ないともいえるしね。 面白ければ良いんだ。 リスペクトは出来ない、という気持ちは依然として残っているけど、創り手はリスペクトされなければならない、ということもないし。 これはこれでいいんでしょうな。 |