ファントム、吸血殲鬼ヴェドゴニア

2つの作品が示すもの 2001_05_14

 

近頃、評判のエロゲーメーカーがある。
「ニトロプラス」というメーカーだ。

私はこのメーカーの『吸血殲鬼ヴェドゴニア』という作品をプレイして、「監督:虚淵 玄」という表示を見たとき、「監督」とはまたえらい気張ってるねえ、と思った。
しかしプレイを進めていくうち、なるほどこれは監督の仕事だと思い知ることになった。
そこにはゲーム全体をコーディネイトする意志が働いていたのである。
私は強い好奇心に駆られて、更に同じメーカーの前作にあたる『ファントム』という作品をプレイした。
やはりそこには「監督:虚淵 玄」がおり、「ニトロプラス」というメーカーがただ者でないことを思い知らされることになったのである。

「ニトロプラス」というメーカーが他のエロゲーメーカーと違う点は、要するに「何がしたいか」から計算してゲームを構成している点である。
通常のエロゲーでは、出来ることから逆算してゲームを構成する。
例えばアニメーションを入れるかどうかは、必要かどうかではなく、それがメーカーの能力として出来るかどうかにかかっているのだ。
その違いを端的に表しているのは、『吸血殲鬼ヴェドゴニア』においては3Dムービーであり、『ファントム』においてはシステムを出来合のものに依存している点だろう。

『吸血殲鬼ヴェドゴニア』における3Dムービーは、別段ストーリーを説明しているわけではない。
ただの雰囲気作りである。
サイバーパンクとオカルトの中間に位置するような。
おそらくそれは「監督」が入れたい!と思ったから作ったのだろう。

『ファントム』の方は、お世辞にもよくできたシステムとは言い難い。
「macromedia」という出来合を利用しているのだ。
敢えてこのシステムを採用したのは、Win/Mac両対応にしたかったからだろうか?
私はむしろ、簡単に作れるからだと想像している。
あるいは、その当時優秀なプログラマーがいなかったとか。
どうせ幾つかの選択肢を選ぶだけのゲームなのだから、やりたいことが出来ればそれで構わない、というが判断があったはずである。

全く以て大したメーカーだ、「ニトロプラス」は。
いや、「監督:虚淵 玄」というべきか。
それは偽らざる気持ちである。
両方とも満足できる作品だった。
しかしながら、この2つの作品が私のスタンスを覆そうとしていることにも気付いている。

私は許さない。
エロゲーの作り手がゲーム屋の誇りを持つために、余計な負荷をプレイヤーに課すことを。
ゲーム屋の誇りを持ちたいならば、コンシューマーの世界へ飛び込んで、あのすごい奴らと肩を並べてやってみろと言いたい。
本当に力があるなら、エロゲーの世界に留まっている必要なんかないのだ。
言い訳は要らない。

ところが、『吸血殲鬼ヴェドゴニア』『ファントム』という2つの作品は、何かを表現しようと思ったとき、とりあえずPCに拠らざる得ない、という事実を示している。
エロがなければ売れない以上、PC=エロゲーということになるだろう。
『ファントム』を世に送り出すことが出来たのは、おそらく「micromedia」を利用することで安価に仕上げたからだろうし、『吸血殲鬼ヴェドゴニア』の3Dムービーは安価なCGツールを利用することが出来たからに相違ない。

エロゲーには依然として「表現の場」としての機能が残されている。
10年前ならいざ知らず、今を以てなお残されているとは・・・。
2つのエロゲーは図らずもそれを証明して見せた。
もちろん、作り手のエゴをプレイヤーに押しつけてはならない、ということは言うまでもないのだが。


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