新しい試みのゲームをほめることは簡単だが・・ 2000_02_01
新しい試みのゲームをほめることは簡単だが・・ 2000_02_01
新しい試みをしているゲームって、ついついほめてしまいがちだ。
とりあえず面白いかどうかは別にして、そういうアグレッシブな姿勢は
高く買っていきたい。
といっても、やはりあちこちでほめられていると、『本当にそんなに面
白いの?』という気持ちになったりする。
きっとそういうのに当てはまるんじゃないかなって思うのが、このゲー
ム「ROOMMANIA#203」だ。
今ちょうど一回目のエンディングを見たところなのだ。(シナリオ2)
はて、どう書くべきか?
根がひねくれ者なだけに躊躇してしまうが、ここは素直に絶賛したい。
エンディングを眺めているときの感覚は、まさしく一流のゲームを終え
たときのそれだと感じたからだ。
確かに取っつきは???といった感じだったが、軌道に乗り始めてから
はエンディングまで一直線であったことも書き加えておきたい。
このゲームの軸をなんと見るかは意見が分かれるところだと思うが、私
は『お使い感からの脱却』という視点から考えてみたい。
というのも、ラストで主人公ねじがチャットをしているシーンを見てい
るときに、強い衝撃を受けたからだ。
それは、『ねじ』という架空の主人公が成し遂げた物語の傍観者として、
その物語を堪能しているという初めての経験だった。
ゲームが批評される際、しばしば『お使い感』という言葉を聞く。
そもそもこの『お使い感』という奴の正体はなんなのだろうか?
考えてみるに、それは主体性の欠如という言葉で表されるように思う。
つまり、何でも出来るという自由度はプレイヤーを苦しめるし、かとい
ってシナリオを限定すれば、自分のことなのに自分の行動を決めること
が出来ないというジレンマが『お使い感』を生むのである。
もちろん、同じお使い的要素があるものでも、主人公の行動が納得行く
ものと、そうでないものでは、『お使い感』が異なるであろう。
しかし、どんな優れたシナリオであれ、人の感じ方は千差万別だから、
全ての人から『お使い感』をぬぐい去ることは不可能なのだ。
この「ROOMMANIA#203」においても、お使い的要素はある
のである。
プレイヤーは用意されたシナリオに沿って、主人公ねじ君を誘導してい
くにすぎない。
だが、そこに『お使い感』はない。
もし『お使い感』を持ったとすれば、このゲームを楽しむことは出来な
いはずだし、おそらく簡単にはクリアできないであろう。
というのは、プレイヤーに新しい役割が創造されているからである。
それは『イメージすること』と言っても良いし、『連想すること』と言
っても良いだろう。
ヒント画像を見ながら、最終的にそこへ至るには、ねじ君の住む203
号室の何を使ったらよいのか?
ねじ君をどう反応させたらよいのか?
それをイメージすることがプレイヤーの使命なのだ。
決して『プレイヤー=ねじ君』ではない。
私はこれをとても新鮮に感じた。
そしてとても面白いと思えたのだ。
実を言えば、この文章を書き上げる前に、もう一つのエンディングにた
どり着いてしまった。(シナリオ1)
エンディングを眺めながら、あぐらをかいた両太股を何回も叩いた。
やるせない気持ちになった。
しかし、エンディングテロップが流れ終わる前に、私は『いや、ねじ君
はよくやったよ』と思えたのだ。
100万本とはいわない。
せめて「シーマン」の様に、少しずつ、少しずつ売れていって、一年で
50万本売れた、なんて話が聞けたら私は嬉しい。
幸いにして私の知る限り「ルーマニア」の品不足は続いているようだ。