パペッティア

ナラティブなんて言葉は使わなくても 2013_09_29

 

ついこの間、ゲームの記事を検索していたら「ナラティブ(narrative)」という言葉と出くわした。
直訳すると「物語」になるのでストーリーと大差ないのだが、文芸理論の世界では特別な意味を持つ専門用語なんだそうである。
ゲームの世界では厳格な定義はないんだけれども、プレイヤーが自分で紡いでいるような気分になる物語をナラティブと呼ぶのが流行っているらしい。
このゲームはナラティブだ、ナラティブじゃないって。
ちょっとやな感じではあるよね。
ナラティブといっておけば、ゲームが分かっているみたいな雰囲気。
論点自体は昔からある話で、べつに特別なことを言っているわけじゃないだろ。
要するに、物語から得られる喜びにどれだけプレイヤーの寄与があるか、という話と同じ事だと思われる。
私はナラティブなんて言葉は絶対使わないぞ、と思っているときに、いかにもこの言葉を使ってくださいと言わんばかりの作品をプレイした。
『パペッティア』がそれだ。
これは褒めにくいゲームだったな。


『パペッティア』は凄いんだ。
だって、プレイヤーが操作しない時間が長い。
ステージの前後に5分ぐらいずつ見てるだけの演劇が入ってる。
凄く力を入れて創ってることは分かるんだけど、そこにプレイヤーが介在する余地はない。
せめて主人公だけでも操作できればまだマシなのだが、主人公は主人公で勝手に動き回る始末である。

ゲームが始まっても基本的にはレールに沿って進むだけ。
主人公の代わりに状況を説明するピカリナのトークを聴きながら、決められたことを決められ通りにやっていく。
やるべき事はすべて絵で描いてあるのだ。
しかも、□ボタンを連打していくだけで、ホントに糸のレールに沿って進むゾーンも多い。
自分で物語を進めている感覚はまったくない。

狭義の意味においてもゲームはあんまり褒められない。
背景を切って空中を進んでいくアイディアはなかなかいいと思うのだが、アクションゲームとしては非常に大雑把。
中間状態がなく空中でしばらく滞空するような感じのジャンプなんかを見れば、大雑把加減が良くわかる。
中間状態がないってことは、立ってる・しゃがんでる・ジャンプ中の3状態だけを考えればいいわけだから、きっちりバランス取りできそうなもんだけど、全体的にゆるめで非常に退屈なステージが続く。
最後の最後まで、突き詰めてステージデザインしている感触は全くなかった。

唯一、ヘッドを集めるところにだけプレイヤーの取り分がありそうな気がするのだが、ヘッドを付け替えてもアクションに関係ないから意味ないんだよ。
ホントにただ収集するだけ。
あれ、どうやって収集するモチベーション高めたら良いのかな?
各ヘッドに付けられたコメントは面白いけどね。

総じて、ずっとやらされている感じのゲームだった、『パペッティア』は。
得られる喜びに自分は全く寄与していない。
これを面白いとアピールしても、自分が素晴らしいことにはならないだろ。
でも、私は好きなんだよ、このゲーム。
ナレーターとピカリナの掛け合い聴いてるのも、慣れてくれば心地良いもんだ。
みんながみんな、ゲームを求めているわけじゃない。
プレイヤーの寄与がないからといって、悪いとまでは言えまいて。
これしかないって事になると困るけど、こんなのもあっていいんじゃないか、と私は思うな。


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