「シューティング・ラブ」 この言葉を聞いて何を感じるだろうか? 一見熱い言葉のようにも聞こえなくはないが、実を言うと私はあまり良い印象を持たなかった。 何故かというと、「プロレス・ラブ」との類似で捉えていたからである。 これはゲーム話ではないのだが、少しだけ私のベースになっている知識を書いておく。 断っておくが、私はプロレスマニアではないので、いい加減な知識である。 「プロレス・ラブ」という言葉は武藤敬司が言い出したんだと私は認識している。 武藤敬司というのは、かつて新日本プロレスに所属し、闘魂三銃士のひとりだった男である。 現在は全日本プロレスの社長を務めている。 ここ数年、「K1」やら「PRIDE」やら本気の格闘技が流行りで、エンターテイメントであるプロレスにも影響が出ていた。 プロレスなのに、真剣勝負、あるいは、真剣勝負っぽい試合が増えていたのだ。 特にドーム大会のような特別なシリーズではメインイベントに真剣勝負っぽい試合が組まれる。 プロレスというのは相手のワザを受けることで成立するわけで、相手のワザを受けてはならない格闘技とは全く異なるものだ。 そこには矛盾がある。 武藤はおそらくそれがイヤで、「プロレス・ラブ」と言い出したんだろうと私は理解している。 ただそれは本来のプロレスが亜流になろうとしているから「ラブ」を使うわけで、逆に言うと「ラブ」がなければ本流に逆らえない、ということをも意味していた。 なんかそれもちょっといやらしいかな、と私は感じていたのである。 この感覚に引きずられて「シューティング・ラブ」にもあまりいい印象を持たなかった。 私はいま『トライジール』をプレイしている。 思いのほかハマったな。 今はこればっかりである。 しかし、これを人に勧められるかと言ったら、やはりそうではない。 喜びをエンハンスする仕組みが何もないのだ。 同じシューティングでも、ちょっと話題になったゲームには喜びをエンハンスする要素がある。 例えば『怒首領蜂』なら、一見避けられなさそうに見えるから避けたときに喜びが大きくなる。 『サイヴァリア』だって、無敵時間中に弾幕に飛び込んだら、なんかスゲー!って感じがあるだろう。 無敵時間の連続発動を覚えれば、スゲー!スゲー!スゲー!ですよ。 そういうのが『トライジール』にはないな。 支払ったお金だけの一人前の料理が出てくる印象である。 やれば面白いのは間違いないが、何故これをやらなければならないのか。 やらなければならない理由など私たちにはない。 だからこそ、これをやるからにはやはり「ラブ」は必要なんだ。 「ラブ」すなわち「愛」ですよ。 「愛」ってのはなんだか訳のわからないものだから。 この得体の知れない力を借りるしかない。 楽しいものが世に溢れている今この時代に敢えて『トライジール』をプレイする。 これは難しいことだ。 「愛」の力なしでは到底不可能なんじゃないか。 いま5面のボスがどうにも乗り越えられなくて、やや絶望気味なんだけど、ここを乗り越えたらあるいは「シューティング・ラブ!」と叫べるやもしれないな、私も。 叫べるかな? 叫んでみたいものだねえ。 |