テイルズ オブ シンフォニア_3

織り込む 2003_12_10

 

こいつら、理想主義革命家みたいだな、と思った。
考えようによっては、永田町や霞ヶ関に突入して政治家や官僚を片っ端から切り捨てていくことと、『テイルズ オブ シンフォニア』の主人公達がやっていることは同じなんじゃないか。
ゲームの中の悪しき体制を維持している連中と、私たちの世界を維持している連中はそんなに違わない。
より良い世界を創ろうといって、ガンガン敵を切り捨てていく主人公達は一般の人たちから見てどう見えるのだろう?
まさにテロリストに見えるんじゃないか、という気がしたのである。
だって、世の中はすべての人に平等に出来ているわけではないけど、とりあえず今困っていなければ、人は現状維持を望むものだから。

ここで断っておかなければならないのだが、私は別にシナリオにケチをつけようとしているわけではない。
私が書きたいのは、『テイルズ オブ シンフォニア』にはいろいろなメッセージがありそうだ、という話である。

たとえば「マナの枯渇」を「エネルギーの枯渇」と考えると、これは私たちの世界でも問題になっていることである。
「ハーフエルフ差別」は「人種差別」に置き換えることが出来るし、「どちらか一方の世界がマナを搾取する」というこのゲームの世界を、私たちの世界の「富める国と富まざる国」に対応させてみてもいい。
この『テイルズ オブ シンフォニア』には、ちょっと詰め込み過ぎかと思えるほど、いろいろな要素がある。
問題意識を持って創られたというよりは、物語を面白くするために導入したという感は強いけど。

そこで私は、ゲームっていうのは凄いな、と思うのである。
ゲームの中に問題意識を織り込むことによって、メッセージを飲み込ませ、考えさせることが出来る。
字面で訴えるのとは全く違うな。

例えば、『Dの食卓2』のエンディングに人類の抱える問題が列挙されるシーンがある。
あれを読んで感心する人間がいるか?
そんなヤツいやしない。
なぜならば、そこから得るものは、はじめから自分の中にあったものに過ぎないからである。
ただ書いただけでは何一つ訴えたことにはならない。

そこへいくと、『テイルズ オブ シンフォニア』なんかは、ちゃんとストーリーの中に組み込んである。
その問題意識がプレイヤーの動機付けになったり、理由付けになったりするわけだ。
そうすると、これは一応飲み込める。
自分の考えと違っていても。
そして、飲み込むことによって考える契機を得ることにはなる。

ゲームには興味深い効果があるんだ。
この効果を何かしらの表現へ利用しようというアプローチは当然に出てくるだろうし、そういったものを私たちは既に数多く経験してきた。



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