DCの『シェンムー』が発売されたのは1999年の12月だそうである。 Wikipediaをみたら、そう書いてあった。 もう正確な日付など覚えてはいない。 『龍が如く』が発売されたのが2005年の12月だから、実に6年後のことである。 そりゃ、いろいろ反省は生かされるよな。 もっとも私がそれを知ったのは、2007年の2月も終わりにさしかかった頃のことである。 PS2で発売した上に、異様に安いベスト版を出されたせいで、非常に手に入れにくかったのだ。 SCEにびた一文くれてやるわけにはいかないからね。 それはさておき。 私はこの『龍が如く』を『シェンムー』の後継作品という位置づけでプレイしてきた。 そういう目でこのゲームを見てみると、やっぱり私が『シェンムー2』の時に感じていたことは正しかったのかな。 結局、「シェンムー」ってのは「シェンムー・ザ・ムービー」だったんだ、というあの感想は。 ホントは「ムービー」を見せたいだけなのに、なまじゲームをしっかり織り込もうとか、自由度を高めようとか、変なこと考えすぎて失敗したんだろうなって、『シェンムー2』をやったときに感じたんだ。 というのも、『2』ではかなり改善されていたから。 だーれもゲームなんかしたくない。 だーれも自由度なんか欲していない。 見よ、この『龍が如く』の割り切り具合を。 「××へいけ!」って指示してくれば良いんだよ。 ムービーの合間に適当にボタン押してりゃ、多くの人はそれなりに満足する。 自由度なんてのは、やりたい人にだけ提供すればいいモノなんだ。 しかし、それは『2』の時点で既に判っていたことだ。 それとは別に、『龍が如く』ではじめて判ったことは、置き換える対象に訴求力が必要だって事だった。 訴求力ですよ。 お使いの途中で同じような格闘をさせるにせよ、格闘家の卵と港の労働者がスポーティーにやるのと、ヤクザが血ヘド吐きながら殴り合うのとでは訴求力が違うよな。 それは「非日常」という言葉で表現しても良いのかもしれん。 同じ時間稼ぎ、同じ何かやった感稼ぎであっても、喜びの増幅度は「非日常」の方が大きい事は想像に難くない。 いい加減な記憶で申し訳ないけど、鈴木Pがシェンムーの時に「愛とか友情といった普遍的なモノを軸に据えるしかない」とかインタビューで言ってたような記憶があるんだけど、『龍が如く』でも同じなんだよね。 ところが、同じ「愛とか友情」でも任侠をテーマにすると、また強い訴求力が生まれてくる。 特殊な世界だからね。 それも「非日常」というキーワードで説明してしまって良いのかもしれないが。 『龍が如く』、面白かったよ。 あっという間にクリアしてしまった。 私はイリーガルな世界をカッコ良く描くことが嫌いなので、あまり褒めたくはないけどね。 なんだか『龍が如く』をやってたら、『シェンムー』が売れなかったのは当然のような気がしてきた。 舞台設定の段階で既に間違っていたのかな。 7年も経って、こんな結論に辿り着くのは寂しすぎるけど。 |