ボタンを押させること

ボタンを押させること '99_03_07

 

「トゥルーラブストーリーR」。
新鮮な驚きを感じたことを覚えている。
こういうゲームづくりってありなんだって。

とにかく、「ときメモ」を研究しつくしたゲームだと思った。
「ときメモ」の何が面白くて、何が冗長なのか。
プレイヤーにかかる負荷を極力減らして、求めるものだけを抽出し、かつ詳細に描いた作品だと言えるんじゃないか。

しかしそれ故に、なんというか、たくさんの人の心に響かなかったゲームでもあるような気がする。
「それ故に」というのは、プレイヤーに負荷をかけないという行為が、逆にプレイヤーをして、はまらせない効果を生んでいると感じていたからだ。
「トゥルーラブストーリー」がブレイクしなかったのは、決して絵柄のせいだけではないだろう。

そんな「トゥルーラブストーリー」に続編が出た。
「トゥルーラブストーリー2」、いや、そのまんまなんだけど。
もう10回ぐらいプレイしただろうか?
いろいろ感じることはあるが、批評は避けたいと思う。

どうしても書いておきたいな、と思うのは、プレイヤーにボタンを押させることにどれほどの意味があるのだろうか?ということだ。
前作においてどうだったか覚えてないんだけど、「2」ではいちいち会話の合間にボタンを押させている。
おかげで折角のイベントもテンポが悪い。

もちろん、ボタンを押させるということにも、全く意味がないわけではない。
プレイヤーに何かゲームに関与しているんだ、という実感を与える効果はある。
何もしていなかったら、置き去りにされているかのように感じてしまうかもしれない。

それでも、せめてプレイヤーが喋らない部分くらい、ボタンを押させなくてもいいんじゃないだろうか?
声優さんの掛け合いは、腕の見せ所だと思うんだけど、これじゃあ台無しだ。
登場キャラが同士が話しているシーンで、プレイヤーに「間」を委ねてしまうのは、むしろ手抜きだと思う。
作品として完成されているとは言えないとだろう。

そこには、声優さんのスケジュールの問題もあるかもしれない。
それこそ数え切れないほどの音声を収録するのに、いちいち複数の声優さんのスケジュールをあわせることは出来ないだろう。
しかし、「間」の調整は自分たちでやるべきだと思う。
プレイヤーがボタンを連打している姿が、つくっている人たちには見えているのだろうか?

会話の「間」について、初めて考えたのは、奇しくも「トゥルーラブストーリー」だったんだ。
デートの帰りに喫茶店によって、注文を済ませた後のこと。
何か喋りはじめるかな、と思っているところに、ほんのちょっとした「間」が入れてあった。
その「間」が、俺なんかまずいコトしたっけ?という不安を感じさせた。
あの時に初めて「間」の大切さを知った。

「トゥルーラブストーリー」をつくった人たちは気づいているはずだ。
「間」の大切さに。


<後日談 '99_04_07>

「ときめきメモリアル〜旅立ちの詩〜」では、キャラクターのセリフと主人公のセリフの間は自動送りになっていた。
しかも、自分のセリフは超高速表示。
私はこれが正解だと思う。


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