「トゥルーラブストーリーR」。 新鮮な驚きを感じたことを覚えている。 こういうゲームづくりってありなんだって。 とにかく、「ときメモ」を研究しつくしたゲームだと思った。 「ときメモ」の何が面白くて、何が冗長なのか。 プレイヤーにかかる負荷を極力減らして、求めるものだけを抽出し、かつ詳細に描いた作品だと言えるんじゃないか。 しかしそれ故に、なんというか、たくさんの人の心に響かなかったゲームでもあるような気がする。 「それ故に」というのは、プレイヤーに負荷をかけないという行為が、逆にプレイヤーをして、はまらせない効果を生んでいると感じていたからだ。 「トゥルーラブストーリー」がブレイクしなかったのは、決して絵柄のせいだけではないだろう。 そんな「トゥルーラブストーリー」に続編が出た。 「トゥルーラブストーリー2」、いや、そのまんまなんだけど。 もう10回ぐらいプレイしただろうか? いろいろ感じることはあるが、批評は避けたいと思う。 どうしても書いておきたいな、と思うのは、プレイヤーにボタンを押させることにどれほどの意味があるのだろうか?ということだ。 前作においてどうだったか覚えてないんだけど、「2」ではいちいち会話の合間にボタンを押させている。 おかげで折角のイベントもテンポが悪い。 もちろん、ボタンを押させるということにも、全く意味がないわけではない。 プレイヤーに何かゲームに関与しているんだ、という実感を与える効果はある。 何もしていなかったら、置き去りにされているかのように感じてしまうかもしれない。 それでも、せめてプレイヤーが喋らない部分くらい、ボタンを押させなくてもいいんじゃないだろうか? 声優さんの掛け合いは、腕の見せ所だと思うんだけど、これじゃあ台無しだ。 登場キャラが同士が話しているシーンで、プレイヤーに「間」を委ねてしまうのは、むしろ手抜きだと思う。 作品として完成されているとは言えないとだろう。 そこには、声優さんのスケジュールの問題もあるかもしれない。 それこそ数え切れないほどの音声を収録するのに、いちいち複数の声優さんのスケジュールをあわせることは出来ないだろう。 しかし、「間」の調整は自分たちでやるべきだと思う。 プレイヤーがボタンを連打している姿が、つくっている人たちには見えているのだろうか? 会話の「間」について、初めて考えたのは、奇しくも「トゥルーラブストーリー」だったんだ。 デートの帰りに喫茶店によって、注文を済ませた後のこと。 何か喋りはじめるかな、と思っているところに、ほんのちょっとした「間」が入れてあった。 その「間」が、俺なんかまずいコトしたっけ?という不安を感じさせた。 あの時に初めて「間」の大切さを知った。 「トゥルーラブストーリー」をつくった人たちは気づいているはずだ。 「間」の大切さに。 <後日談 '99_04_07> 「ときめきメモリアル〜旅立ちの詩〜」では、キャラクターのセリフと主人公のセリフの間は自動送りになっていた。 しかも、自分のセリフは超高速表示。 私はこれが正解だと思う。 |