好きということ(2)

好きということ(2) 2003_11_23

 

「好き」ということを考えていて、ああそうか、と思うことがあった。
『天外魔境2』について書いたとき、RPGが劣化するということを考えていたが、アクションゲームもやはり劣化する。
それは『天外魔境2』みたいに11年の歳月を経るまでもなく、いま現在のゲームでも劣化するのだ。
ところが、「好き」ということは、それを埋め合わせることが出来るのである。

アクションゲームにおいて、ジャンプで穴を飛び越えることを考えてみる。
2Dの時、横からキャラを見てジャンプするのは簡単なことだ。
方向キーを入れっぱなしにしておいて、穴の直前でジャンプボタンを押せばいい。
ところが、3Dで背後視点になると、キャラがかぶってしまって踏切位置が見えにくい、なんていうケースが出てくる。
また着地地点が狭かったりすると、自分がどの程度ジャンプしているのか把握したいところなのだが、横座標(背後視点だったら奥行き方向というべきか)の何処にいるのかわからなかったりする。
つまりアクションゲームが3Dになるということは、必然的に難しくなる、ということだ。
私流にいうと、負荷が大きくなる、ということになる。

じゃあ、何でわざわざ3Dにするのかというと、3Dした方が喜びが大きくなるからだろう。
絵が綺麗になったり、リアリティが増したりするわけだ。

ところが、この喜びは減少する。
PS・SS時代に初めて3Dアクションゲームを体験したときは、それはそれは大きな喜びだったものが、慣れてくると喜びが小さくなるのだ。
そのくせ、3Dであるが故の負荷というのは減少しない。
結果として、見た目が同じレベルの3Dアクションゲームというのは、新作であっても負荷と喜びのバランスを崩して劣化するんじゃないか。

そこで重要になるのが「好き」なんだろう。
以前、アクションゲームは自由度が高いからやり込みゲームを創りにくい、ということを考えていたけど、逆に自由度が高いからこそプレイヤーにキャラなり世界観なりを好きになってもらう演出を入れられる。
好きになってもらえれば、劣化した分を埋め合わせることが出来るし、お釣りが来るぐらいである。
今の日本では、アクションゲームでミリオンヒットが出ることは考えにくいけど、それでもある程度は計算できる分野なんだ。

『ビューティフルジョー』なんかは、考えてみるとスゴいゲームだ、ということがわかる。
処理は3Dだけど、プレイ感はあくまで2Dだ。
あのゲームの負荷は純粋にアクションと謎解きにあって、視点の負荷はない。
それなのに目一杯プレイヤーに好きになってもらう努力をしている。
おちゃらけたヒーローものの雰囲気を織り込むために、アクションゲームの自由度を利用しているわけだ。
だから、あれは難しく創ってもイイんだろう。
好きになってもらうことでバランスがとれれば。

そういう意味では、アクションゲームって創り易くもあるのかな?



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