ビリー・ハッチャーの大冒険

好きということ(1) 2003_11_22

 

たとえば、私はゲームの構成を考えるとき、音楽は全く考慮しない。
どうしてかというと、それは結局「好きかどうか」という問題になるだろうと思うからだ 。
BGMなり効果音なりが、ゲームにおいて非常に重要であるということには同意するにしても。
明らかに展開にそぐわない、とか、明らかにゲームの世界の平均的レベルを逸脱しているということでなければ、これをゲームの構成として捉えることは出来ないんじゃないか。
「ここは渾身の楽曲だから、負荷を大きめにかけてもイイだろう」なんていう判断があるとは思えない。
曲の好き嫌いは客観的に捉えることが出来ないから、創り手もそれを狭義の意味でのゲームの構成要素として考えないだろう。
だから、私は全く音楽には触れないのである。
もちろん、その手の話題に自信がないからでもあるのだが。

ところで、なんの話をしているのかというと、「好き」ということがゲームの中でどういう意味を持つのか?という疑問についてである。
というのも、「好き」ということはゲームの中でスゴく大事なんだ。
私はそのことを『ジャイアントエッグ ビリー・ハッチャーの大冒険』をプレイしながら感じていた。
好きだからこそ、ミッションをオールコンプリート出来たに違いない。

この『ジャイアントエッグ ビリー・ハッチャーの大冒険』には、つまらない負荷が入れてある。
レールにタマゴを乗せる「乗っかり判定」がやけに厳しかったりとか、バウンドジャンプで登る段差がギリギリの高さに設定してあって主人公が落ちちゃうとか。
3Dであるということも手伝って、これは要らないなと思う負荷が幾つかあった。
もしこの負荷がなかったとしたらゲームが簡単になりすぎるので、ゲームの構成として組み込んだんだろうな、と私は想像している。
それを乗り越えられたのは、取りも直さず、私がこのゲームを好きになっていたからである。

じゃあ、なんでこのゲームを好きになったのかというと、それは私がこのゲームのデモを何十回も観たからだ。
このゲームを買ってきたのは、ソニックチームが開発してGCで発売されたからだが、それは好きなった理由ではない。

たまたま並列でたくさんのゲームを進めすぎていて、これ以上増やせなかった。
『ジャイアントエッグ ビリー・ハッチャーの大冒険』を立ち上げるには、ある程度まとまった時間を用意しなければならないだろうという予感はあったのだ。
しかし買ってくると、どんなゲームなのか観てみたくなるのは当たり前の話で、私はプレイせずにデモだけ繰り返し観ていた。

で、これはイイな、と思った。
ニワトリの騒がしさと子供の賑々しさ。
それに縦笛のシンプルな旋律が加わって感じられる無垢なイメージ。
それは本当の子供の姿ではなくて、私たちが思うあるべきイメージなんだね。
ニワトリなり子供なりというのは始まりを意味しているワケでもあるし。
つまるところ、デモを繰り返し繰り返し観ているうちに、私はこのゲームに魅せられたのである。
口元のデザインも好きだな。

結局、好きになれば、よっぽどの負荷でも乗り越えられるんだ、ということは言える。
局面局面での負荷に対して好き嫌いをゲームの構成として考えることはできないけど、ゲーム全体としては好き嫌いは非常に重要な意味を持つのだ。
そうすると、プレイヤーにゲームを好きになってもらえるように創ってあるか、ということが大事だということになる。
デモってのは全員が何度も観るワケじゃないから、誰もが通るプレイ中に好きになってもらう演出を入れておくべきなんだろうな。
その点で、この『ジャイアントエッグ ビリー・ハッチャーの大冒険』は弱いかな、ちょっと。
売れ行きは別にして、勿体ない話だな、とは思っている。
ホント、やれば面白いんだけどな。



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