社会との折り合い

社会との折り合い 2005_07_23-24

 

ゲームの年齢制限の話で神奈川県知事のブログが大賑わいなんだそうだが、海外では『グランド・セフト・オート』に隠し性表現が入っていたことが問題になっているそうである。
私も興味があってムービーを観てみたところ、性表現というか性行為そのものだった。
通常のモデリングのままなので、私が言うところのエロではない。
要するにあれは悪ふざけなんだろうな。
なんのメリットもない。
大人気のゲームを創っている人間の奢りというべきなのか。
島田紳助の時もまさかと思ったけど、調子こいてる人達ってのは時に思いもよらないことをしでかすようだ。
自分たちで社会との折り合いを付けるために作ったルールを自分で破った。
それ相応の報いを彼らは受けるだろう。

それは海外の話なのだが、私たちは私たちで日本の問題に直面してる。
私は大いに規制すればいいと思っている。
私は特別暴力ゲームをやりたいとは思わないし、大体からして私の年齢になれば18禁なんてのはまるで関係ない。
しかし、そんな物言いでは規制反対派を納得させることは出来ないだろう。
もう少しまともな話を書いてみようか。
キーワードは「社会との折り合い」。

「ゲームが子供に悪影響を本当に与えるのか?」を研究することには意味があるかもしれない。
「表現の自由を守ろう」と叫ぶことも尊いかもしれない。
しかしそれは今私たちが直面しているゲームの年齢制限とは直接関係ない。
今問題なのは、ゲームが社会に不安視されていて、このままでは受け入れてもらえない、ということである。

いわゆる保守的な人間というのは、何かしら変化があったとき、その原因を変化が起きる前にはなかったものに求める。
つまりここ20年ぐらいに起きた変化の原因をゲームに求めるのである。
これは例えば、少年犯罪は表面に現れなかっただけで昔からあったんです、と主張しても通用しない。(偶然だけど、そんなような話『仮面幻影殺人事件』の中にあったね)
なぜならば、彼らは耳を貸さないからである。
しかし、耳を貸さないからといって無視してイイかというとそうではない。
耳は貸さないけど、彼らは力を持っている。
それは世論の形成という形でマスメディアを動かしたり、各個人の投票行動となって現れたり、時にはロビー活動となって政治を動かす。

ゲームの世界は少し大きくなりすぎた。
耳を貸さない人達とも折り合いを付けなければならないところまで来ているのである。
正しい、正しくないの問題じゃない。
ゲーム業界が自主規制しようといっているのも、要するにそういうことだ。
ただし、強制力のない自主規制で折り合いがつくのかは大いに怪しいことだけれども。
折り合いがつかなければ、折り合いがつくまで揉めることになるだろう。
揉めるぐらいならイメージが悪くなる前に厳しく規制すればいいんじゃないの、と私は思っている。



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