「人間はなんのために生きているのか?」 そう問われれば、私は躊躇うことなく、生きるために生きているのだ、と答える。 生きることに意味など無い。 生まれてきてしまった以上、生きるしかないのである。 しかし、「人間はなぜ生きることが出来るのか?」と問われれば、また違った答えを見出さなければならないだろう。 人間の考えることは総てが主観。 よく我々は「客観的に考えて」などというが、「これが客観だ」と思っているのは自分であり、実は客観は主観に包含されるものである。 ちなみにこの考え方はカントというドイツの哲学者が言い出したんだそうで、彼はこの考え方を地動説を唱えたコペルニクスになぞらえて「コペルニクス的転回」と呼んだそうだ。 私は就職試験の勉強をしていて初めてカントを知り、そんなもん言われんでもわかっとるわい、と思った。 しかし、なにごとも最初に言い出した人間がその栄誉を受けるものなのである。 これは余談。 人間は総てが主観であり、私が誰かを認識するから私の世界では誰かが存在する。 一方で他人様の世界では他人様が私を認識するから私が存在するのである。 人は誰かを認識し、認識されるからこそ存在しうる。 つまり、自分を認識するのは自分でありながら、自分を決めるのは実は他人であるとも言えるのだ。 言い方を変えると、他人にどう思われていると感じるのか、が自分を決めると言うことも出来るのである。 だから、人は誰かに大切に思われたい。 誰かに大切に思われていると感じるからこそ、自分を大切な人間であると認識できるのである。 目的もなく生まれてきた我々が生きていられるのは、誰かに大切にされているからだ、と答えることが出来るのではないか。 自分を大切にしてくれる存在として、我々は親を持っている。 でも、いつか親は死ぬ。 それは避けられない。 だから、大抵の人は自分で家族を作る。 伴侶を得、子をもうける。 そして、人に想われるために人を想う。 しかし、それでも最後に自分が残ってしまうことだってあるだろう。 私なんぞはこのままで行くと、確実に最後に残りそうである。 誰にも想われなくなっても人は生き続けられるものなのか? そうなったとき、最後に人間を救うのは記憶なのかもしれない。 かつて自分が誰かに大切にされていた、という。 そういう記憶なしでは生きられないかもしれないな。 だったら、生き続けるためには、そういう記憶を創っておかなければならない、ということになるだろう。 私は『アナザーコード:R 記憶の扉』をプレイしながら、そんなことを考えた。 もちろんそれは単に私が考えただけのことである。 |