加奈〜いもうと〜
『死』を描くことで『生』を描く '99_07_21
私は『死』を演出に使うゲームを嫌悪する。
ゲームだけではない。
小説であれ、映画であれ、私は嫌悪する。
時に、感情の高ぶりから涙を流しながらも嫌悪する。
私は死を扱った作品に出会うと、過去に出会った2つの死を思い出さずにはいら
れない。
一つは母方の祖父の死であり、もう一つはその妻、つまり母方の祖母の死である。
祖父の死後、ちょうど一年を経て祖母は亡くなった。
私は偶然にも、2度ともなくなる前夜にお見舞いにいっている。
二人とも同じように、ビニールカーテンの中で酸素マスクをつけられて眠ってい
た。(いわゆる昏睡状態)
私は母方の実家に特別愛着を持ってはいなかった。
車で20分程度の距離であり、年に2,3回は顔を合わせる事はあったが、私に
とって、母方の祖父も祖母もたまにお小遣いをくれる他人でしかなかった。
しかし、祖父のそのやせ細った手を握ったとき、私の両目からは涙が溢れ出た。
事前にこれが最後のお別れになるだろうからと聞かされていたからかもしれない。
ベッドの裾からはみ出たその右手を両手で包むように握り、頭を垂れたれたまま
涙を流すより他なかった。
なんでもない人の『死』を前にして、私は泣いたのだ。
私は祖母の死に対しても、同じ事を繰り返した。
死には力がある。
とてつもない力がある。
それは死が本質的に持っている力かもしれないし、社会からの刷り込みかもしれ
ないし、動物の持つ本能が自分の死を予感させるからかもしれない。
それがなんであれ、死は人の心を揺さぶる力を持っているのだ。
だから、演出に『死』を持ち出すことが許せないのかもしれない。
いま私がこうして書いているのは、「加奈〜いもうと〜」というエロゲーを再プ
レイするために、気持ちを整理したいと思っているからだ。
昨夜、このゲームはあるエンディングを迎えた。
ゲームの中身について書くことは控えたい。
私はどうしようもない悲しみに打ちひしがれた。
ひょっとして直前の選択肢を選びなおしたら、加奈を救うことが出来るかもしれ
ないと思い、リプレイしたがやはり救うことは出来なかった。
都合2つのエンディングを見たことになる。
エンディングは全部で6つあるらしい。
おそらくはその中に加奈を救う事が出来るエンディングもあるだろう。
しかし、そうでないエンディングもあるに違いない。
昨夜は何度も目が覚めた。
そして加奈が可哀想だと思った。
助けてあげたいと思った。
救うことが出来なかったら辛いな、とも思った。
だがそれは、このゲームの中で描かれる『死』に嫌悪を感じたからではない。
私はむしろその死を見届けてやりたいと思うようになっている。
なぜならば、それは『死』を描くことで加奈の『生』をも描いているからだ。
ひたひたと忍び寄る死を前にして、加奈はあくまでも成長を続けていく。
そして、その『生』を共に生きる人間として、プレイヤーをもまた成長させてい
るから私はきっとこの死を素直に受け入れられるのだろう。
私は加奈の『死』の全てを見届けてやりたいと思う。
それは彼女の『生』の全てでもあるからだ。
<3時間後>
更にもう一つのエンディングを見た。
自分の中で悲しみは更に深くなっていくように思えた。
『加奈』の存在が自分の中で大きくなりつつあるからだろうか?
しかし、それとは反対に、加奈の死を見届ける強さも身につけていっているよう
な気がする。
そしてそれは確信へと変わっていく。