サクラ大戦3_3

越えられる壁 2001_05_08

 

ようやく全員クリアすることができた、『サクラ大戦3』。
本当に長かったなあ、という感じ。
なんとか頑張ってきて、それなりの満足を感じている。

ここまでやってきて、私はこの『サクラ大戦3』がギャルゲー世界の壁であることを再認識した。
しかしながら、これは越えられる壁だとも思った。
ギャルゲーとしてはまだ上がある。

なぜならば、ギャルゲーの負荷にはある効果が必要だからである。
このゲームにはそれが欠けている。

ギャルゲーでは、「プレイヤーの中に如何にしてキャラクターを構築させるか」ということが、もっとも重要である。
その一点に向かって負荷はかけられねばならない。
では「どうやって構築させればいいのか?」というと、プレイヤーに負荷を越える段階で考えさせればいいのである、「このキャラがどういうキャラなのか」を。
ただ情報を与えるだけでなく、キャラを考えさせることが大切である。
キャラを考えながら負荷の乗り越えたとき、その達成感はそのキャラへの思いへと転化していくだろう。

これを端的に示す例に、良い例としては『ときめきメモリアル』を、悪い例としては『センチメンタルグラフティ』を挙げてみたい。
「パラメーターをいじること、デート場所を選ぶこと、好感度を上げる(下げる)選択肢を選ぶこと。」
『ときメモ』の負荷の要素には、概ねキャラをイメージするものが含まれている。
一方、『センチメンタルグラフティ』では、「お金と時間を上手にやりくりすること」という負荷の中に、キャラをイメージする要素は皆無だ。
一生懸命プレイしても、全くプレイヤーの中にキャラは育っていかない。
結局楽しむことが出来たのは、ゲーム以外で情報を持っていた人たちだけである。

そういったことを踏まえて『サクラ大戦3』を考えてみる。
「リップスシステム」や議論を誘導していくシーンは、キャラをイメージさせる負荷として非常に良かったと思うが、もっとも大きな負荷である戦闘シーンは根本的に無理がある。
キャラクターをイメージしようがないのだ。

確かに努力の跡は見られる。
必殺技を高品位のムービーにしたり、一定条件下でコンビ攻撃が発生したり、主人公とヒロインが接すると会話が始まったり、といった様々な工夫が凝らされている。
だがそれは、所詮誤魔化しだろう。
作り手サイドでも、戦闘シーンは面白くないだろうと理解しているから、オマケをいっぱい付けているのだと私は想像する。(戦闘は非常に簡単で、ゲームとしての体を成していないとさえ思えるし)

「サクラ大戦」はやはりここを変えなければ、先へは進めない。
実際、大切な時間がどうでも良いことに浪費されていくのは、大変辛いことであった。
次に作るとすれば、思い切って切り捨てて、新たな方向性を示す必要があるだろう。
それが出来ないならば、もう続編は要らない。

たとえ続編が出なくても、『サクラ大戦3』は依然としてギャルゲー世界の壁として君臨し続けるだろう。
誰かがこの壁を越えるまでは。
越えられる壁ならば、いつか誰かが越えるのだが・・・。


戻る