いま仮に、「DCで100体のキャラが入り乱れる、3Dリアルタイムシミュレーションを作ります。シミュレーションパートの間にアドベンチャーパートも入れることにしましょう。」という話が持ち上がったとしよう。 まず何を考えるだろうか? ここでもし、 「アドベンチャーパートも3Dで行くにはポリゴン数が足りないなあ。 ちょっとハードウェア叩かなきゃな。」 なんてな事を考えてしまっていたら、この素晴らしいゲームは誕生しなかっただろう。 そう、この『ハンドレッドソード』は。 エンディングを迎えてから一晩経って、ようやく心が落ち着いてきた。 『ハンドレッドソード』というタイトルが表すように、このゲームは沢山のキャラクターを同時に表示・管理しなければならない。 それ故に一体一体のモデリングにパワーを割くことは出来ない。 しかし、私はこのゲームをプレイして一度たりともポリゴンが足りないとは思わなかった。 なぜならば、3Dキャラのアップは出てこないからだ。 そのかわりにアドベンチャーパートでは2D絵を挿入した。 それも通常のバストアップより一回り大きい。 そのことは図らずもキャラクターに動きと表情を与えたのだ。 このゲームはWindowsCEを使っているところからして、ハードウェアを叩くという行為をハナから放棄している。 安価に作るということが始めにありきだったのかもしれない。 2D絵で行くんだ、という判断がまずあったはずだ。 そこに偶然なのか必然なのか、開発チームは優れた絵描きさんと物書きを持っていた。 見よ、この魅力的な絵を。 オウガバトル調などといわれる向きもあるようだが、一回り絵を大きくする事でキャラクターの表情に意志を与えた。 立って動くことも出来る。 そして見よ、この無垢な喜びを!、失うことの悲しみを!、耐え難い寂しさを!、変化への怯えを! 優れたシナリオは絵に更なる表情を与えた。 同じ絵であっても、シナリオでプレイヤーの中に描かれたキャラクターの表情は変化するのである。 結局、このゲームは2D絵で行くんだ、という判断で全てが決したと私は思う。 絵描きさんと物書きを含めた開発リソースを眺めながらの判断。 このゲームはここに尽きるだろう。 素晴らしいゲームだった。 いや、過去形をあててはいけない。 まだプレイ中なのだ。 残念ながら今の私には、シミュレーションパートは自分をゲームの世界へと導入するための負荷でしかない。 しかしながら、このゲームに更なる素晴らしさがあるとすれば、私はそれを白日の下に晒さずにはおかないだろう。 必ずや。 |