風ノ旅ビト、PS4版

高貴なゲームのイメージを借りて 2016_10_12

 

私は広義のゲームを狭義のゲームである負荷を含むもの全てである、としている。
従って、スポーツであれ、勉強であれ、遊ぶことであれ、すべてがゲームであると言える。
テレビゲームはその中の一種に過ぎない。
しかし、その一種であるが故に性質は同じである。
我々は感じているはずだ。
大きな困難を乗り越えるプレイヤーに対して敬意を。
見返りを求めないことに、あるいは無意味な行為を続けることに美しさを。
テレビゲームではないことに対しても、おそらくそれは同じだろう。

ところで、あんまりにも遊びたいゲームがないので、PS+を覗いてみたところ、『風ノ旅ビト』がフリープレイになっていた。
このゲームの評判が良いのはもちろん知ってたんだ。
ただし、どうも褒めちぎられてるのが胡散臭い気がして、ずっと保留になっていたである。
まあでも、500円ならやってみてもイイか、という気になった。
PS+に入るということは必然的にネットにもつなげるわけだから、単独で購入するときよりも断然お得でもあった。

プレイしてみると、酷く他愛もないゲームであることに気付く。
基本的にひたすら砂上を歩いたり、滑ったり、ジャンプするだけである。
時折スイッチを入れて回る必要はあるが、別に難しくはない。
敵らしきものに邪魔されるのは最後の方にちょっとだけ。
こんなもん、褒める要素なんかどこにもないだろ、ゲームだけ見たら、と思う。
しかし、確かになんか褒めたい気はするんだ。
そこは少し考えたくなる。

このゲームには説明が全くない。
従って、映像から想像するより他にないのだが、私の頭に最初に浮かんできたのは、聖地に巡礼する砂漠の民のイメージだった。
聖地に行ったからってどうってワケじゃないのに、命がけで聖地に行く姿は極めて美しいと感じられる、私には。
でも、ときどき大きい人が出てくるから、あれがお釈迦様のイメージだったら、自分はガンダーラを目指す三蔵法師なのか、とも思った。
いやまて、あの大きい人は先輩で、ネット経由で一緒に旅をする他のプレイヤーが同志なのだとすれば、「かもめのジョナサン」的な風景なのかもしれん。
いずれにしても見返りがあるのか、価値あるのか無いのかよく分からないことに、ただひたすら挑む姿に美しさ見出すことは出来る。

そういうイメージを借りてきて、私がいうところの置き換えをすることによって、プレイヤーに感動を与えているんだ、と説明すれば、私の褒めたい気持ちも納得がいくのではないか。
自分は辛い思いをしていないのに、辛い思いをした人だけがえられる喜びを体験できたような気がする、というのはまさにテレビゲームの特徴だからな。
得をする、という。
だから、そういうイメージをプレイヤーに抱かせる表現、あるいは映像美こそがこのゲームのキモということになるんじゃないか。
いやホントに大したことをやっていないのに、大きな満足を得られるゲームだった。


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