『NO MORE HEROES』の主人公トラヴィスは殺し屋である。 トラヴィスはある日突然殺し屋ランキング11位に登録されてしまうのだが、彼は全くそのことに関して疑問を抱かない。 どういうワケか、ひたすらランキング1位を目指して戦っていくことになる。 なんのためにランキング1位になる必要があるのかよくわからないのだが、トラヴィスは戦うのだ。 私はそれを見ていて、何となく『カモメのジョナサン』を思い出していた。 『カモメのジョナサン』というのは1970年にアメリカで出版されて大ヒットした、ヒッピー文化を象徴する作品として知られる本である。 ジョナサンはただひたすら速く飛ぶことに魅せられたカモメであり、速く飛ぶという無意味なことに全てをかける様が当時のヒッピー達に受けたらしい。 翻訳され日本でもベストセラーになったそうである。 私も読んだ。 もっとも私が読んだのは10年ぐらい前のことなのだが。 実を言うと私は『カモメのジョナサン』を読んでも、さほど心を揺さぶられなかった。 なぜか? それは速く飛ぶことはハナから素晴らしいことだ、と私が思うからである。 そこには価値観の対立がない。 ゲーム話でこんな事を書いても仕方ないのだが、少しだけ私の考えを書いておく。 おそらく「速く飛ぶ」という意味のないことに価値を見いだせない普通のカモメたちは、ヒッピー達からすると旧態依然とした大人達であり、それが理解されないからカモメのジョナサンに共感するのである。 ところが、今の我々はちょっと違う。 我々はあらゆる事を許容してしまう。 例えどんなことだってやり抜いている人がいたら、それなりに認めるでしょ? 引き合いに出したら悪いけど、競技人口が何人いるかわからないスケルトンみたいなマイナー競技にだって我々は理解を示すのである。 少なくとも排斥したりはしない。 マイナーなゲームだって同じですよ。(スポーツとゲームってのはルールによって負荷をデザインするという意味において、全く同一のモノなんだけど) 価値観が多様化する世界では、価値を認められないモノなんてのはむしろ見つけるのが難しいのだ。 同じくヒッピー文化を代表する映画である『イージーライダー』なんかだと、最後に主人公達は名もなき農夫に撃ち殺される。 ただ理解しがたい若者達だからというだけの理由で、である。 そういった価値観の対立というモノが感覚としてわからないと、あの時代の作品は本当の意味ではわからないんじゃないか。 有り体に言って私にはわからないのである。 そんな現代にカモメのジョナサンを求めるとすれば、結局理解し得ないモノをもってくるしかない。 そうすると、どうしてもイリーガルな方向へ行かざるを得ないよな。 大抵のモノは許容しちゃうんだから。 だからトラヴィスは殺し屋なんだろうと、私は妙な感想をもったのである。 我々ゲーマーも、もしかすると反抗する対象を失ったロックンローラーとそう大して変わらないのかもしれないな。 実は理解されたくないんじゃないか。 理解されないモノを探して、理解されない!理解されない!と叫びたいのである。 この『NO MORE HEROES』の主人公トラヴィスは、ちょっとふざけているけど、あれは照れているんじゃないか。 無理矢理、理解されない!と叫ぶこともちょっと恥ずかしくて斜に構えてみせる。 そんな気がしないでもないが、それも考え過ぎかもしれない。 <余談> どうでもいいけど、トラヴィスが所ジョージに見えて仕方ない。 <後日談 2008_01_01> 理解されたくない、という観点を持ち込めば、今のゲーム界で起こっていることが理解しやすくなるかもしれないな。 やけに反社会的な暴力ゲームを好む集団がいて、それがいわゆるヘビーゲーマーに多いのはある意味当然なんだ。 理解されないものをやりたいんだから。 それに、ヘビーゲーマーと任天堂との間に起こりつつある摩擦も理解できる。 任天堂は一般大衆に受け入れられるゲームを作ろうと躍起になっているけど、それは全然嬉しい事じゃないんだ。 ヘビーゲーマーは自分たちだけが理解できるものをやりたいのである。 これは極めて根源的な問題なので、おそらく解決しようがないだろうな。 これからアンチ任天堂が増えてくるだろうということは想像に難くない。 |