ゲームの世界は概ね虚構である。 だから現実には出来ないことも実現できるのだ。 年齢制限はあるにせよ、人殺しだってゲームに出来てしまう。 であれば、理想を語ることだって当然許されるはずである。 それが嘘であったり、実現不可能であったとしても。 これから『Ever Oasis 精霊とタネビトの蜃気楼』の終盤について、ハッキリとではないけれども、それとなく書いてしまうので、これからプレイするつもりがある方は読み進めないで下さい。 この『Ever Oasis 精霊とタネビトの蜃気楼』の登場人物はみな純粋である。 主人公は喋らないので、主に水の精霊が創り手を代弁することになるのだが。 終盤になってくると、胸が締め付けられるような痛々しさすらあった。 今戦っているカオスの正体は、人の悲しみや憎しみや妬みそのものであって、人間が存在する限り無くならないものだと判明してもなお、何とかしたいと水の精霊は語りかけてくる。 語りの背後に表示される絵から推測するに、移民排斥とか格差社会などの現実社会の問題を念頭に置いているように私には思えた。 そして、水の精霊は最後にそれをなんとかしようとするのである。 しかし、このゲームの世界には嘘がある。 このゲームにはペンクロウという買い物だけしてくれるペンギンのような生物が登場するが、そんな都合のいいお客さんは現実には存在しない。 労働者は同時に消費者であって、消費には限度があるのだ。 自分が売りたい商品を用意したからといって、買ってもらえるとは限らない。 また、オアシスの中で仕事を与えられたからといって、それで全員が満足できるとは思えない。 中にはもっと重要な仕事でなければ満足できない人もいるだろう。 砂漠を緑に変えられれば、それでみんなが満たされるかといったら、それもまた違う。 生きやすくはなるが、余剰な富が生まれれば、人はまたそれを奪い合う。 どこまで行っても水の精霊が考えるような理想には近づけない。 出来もしない理想のために命をかけるなんて、馬鹿げているかもしれないのだ。 私は最後の展開になんともやりきれない思いがしたな。 それでも、だよ。 これはゲームだから。 出来たらいいなと思うことを実現させるのも、得をさせる一つの方法ではあるはずだ。 別に悪いことじゃないだろ。 もちろんゲームはプレイヤーが自分でやるモノだから、その分、ただ見るだけの映画なんかよりプレイヤーに影響を与えるかもしれない。 よしんば影響を与えたとしても、まあいいんじゃないか。 イタい理想主義に傾倒する人間が少し増えるだけのことだからな。 銃を乱射するわけじゃないんだから。 |