ICO

広さが生む寂しさ 2003_02_14〜20

 

『ICO』。
随分と前にCMを見て以来、ずっとやりたいと思っていたのだが、ようやく今頃になってプレイすることが出来た。
それは打倒すべきPS2用の作品。
私はこれから、このゲームについていかなる説明もするつもりはないが、それは別段PS2用だからというわけではなく、単に私にその情熱がないだけの話である。

私はこのゲームをプレイしていて、ず〜っと視点が気になっていた。
Lボタンが余っているのにもかかわらず、プレイヤー視点が用意されていない。
おかしな話である。
リアルタイム3Dなんだから、視点さえ決定してやれば自動で画像は生成されるはずなのに。
見たいと思うところが見えなくて、強いストレスを感じながらのプレイになった。
なんでだろう?というのが、このプレイを通しての私の疑問であった。
(おまけに、プレイヤーを画面の中央で捉えるように設定しているらしく、進行方向へ視野が狭い。結果としてプレイしづらくなり弱った。これはおそらくセンスの問題であって、これから書こうとしていることとは関係ないだろう。)

しかし、この『ICO』という作品は賞賛されるべきゲームである。
だから私はこの視点の欠陥を弁護してみたいと思っている。

このゲームの素晴らしさは何といっても、主人公とヒロインを白紙にしてみせたことである。
ヒロインの手を引いていく、というところがミソで、プレイヤーを主人公へと重ねさせ、ヒロインへの思いを増幅させていくのだ。

ここで私は主人公が脱出する理由を考えたい。
だって、角の生えた主人公は生け贄にされることに半ば同意していたのだから。
彼には積極的にお城から脱出しようとする理由がないのだ。

私はその理由をお城の広さに求めたい。
お城は決しておどろおどろしいわけではなく、光のさす場所なんかはむしろ美しいぐらいである。
だが、このお城は寂しい。
お城の広さが荒涼とした寂しさを感じさせるのだ。
つまりプレイヤーが彼女を連れて脱出しようとする動機付けは、「こんなところに彼女一人を残してはおけない!」という思いなんじゃないかと私は考えている。
人間は自分のためだと思うと力が出ないものだが、誰かのためだと思うと頑張れるものなのだ。
この作品におけるフィールドの広さはゲームを成立させる上で必然なのである。

ここで、ちょっと技術的なことを考えなければならないのだが、このゲームではときどき先行読み込みをかけているようである。
アクセス音がするのだ。
思うに、メモリが足りないか、テクスチャーメモリが足りないんじゃないか。
雰囲気を出すために遠方まで画面表示しているから。
もしそうだとするならば、プレイヤー視点を許すと、ぽっかり白抜きのエリアが出来てしまうだろう。
そういう理由があって、あえて視点を制限したのだとすれば、私はそれを支持したい。
このゲームには寂しさを生む広さが絶対に必要なんだから。
もっとも、単にプレイヤーを誘導するためだとすれば大きなお世話だし、謎解きを難しくするためであれば論外だが。

よくよく考えると、この『ICO』というゲームは、例えば「ある段差以上は越えられない爆弾を段差を消しながら出口まで運んでいくゲーム」と本質的なところでは変わらないとも言えるだろう。
ところが、爆弾をヒロインに代えて、爆弾を転がす代わりにヒロインの手を引いていく事にすると、これは全く違う作品になってしまう。
これはたいへん素晴らしい着眼だと思うし、そのために必要とあらば、視点を制限することに私は同意してもいい。



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